◇無碍の一道 「人生は苦なり」といわれますように、私たちは、日々の生活を送る中で、様々な苦難と出会い、挫折を覚え、また時には、神々のたたりにおそれ、おののくこともありましょう。親鸞聖人は、このさわり多い人生にありながらも、さわりをこえて生きる念仏の大道のあることを私たちに教えてくださいました。今号では、第七条「念仏者は無碍の一道なり…」の法語を通して、何者にも碍(さ)えられない念仏者の力強い生き方について講じていただきます。 |
【註釈版本文】
念仏者は無碍(むげ)の一道なり。
そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祗(じぎ)も敬伏し、魔界・外道も障碍(しょうげ)することなし。
罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
【意 訳】
阿弥陀仏の本願を信じて念仏する人は、何ものにも碍えられることなく、生と死を超える唯一の大道を往くものです。
なぜならば、阿弥陀仏のみ名を称えつつ生きる信心の行者に対して、天地の善神たちは尊敬し、悪神たちはひれ伏します。人の心を乱し、さとりのさまたげをなすという悪魔も、仏教以外の宗教も、念仏者の歩みをさまたげ、まどわすことができません。また念仏は、どんな罪人も障りなく救う徳をもっていますから、過去におかした罪業も、その報いを受けさせることができないし、どのような自力の善も念仏にまさることはないからですと仰せられました。
▼「念仏」と「念仏者」
『歎異抄』第七条は、念仏者は、このさわりだけの人生にありながら、そのさわりを超えて生きる道を
与えられているという力強い領解を述べられたものです。さまざまな苦難に直面しながらも、それを超えて心豊かな人生を
念仏のなかで全うじていかれた親鸞聖人の信念の言葉です。同時にまた南無阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)と
念仏しながら生きる私どもの一人一人の人生を通して確認しなければならないことがらでもあります。
ところではじめに「念仏者は無碍の一道なり」とある文章について、
これはもともと「念仏は無碍の一道なり」と読むべき文章だったのではないかという説があります。
漢文では、「者」を「しゃ」とよんで「ひと」をあらわすだけではなく「は」と読む場合もあります。
いまも「念仏者は」の「は」は「者」を「は」と読むということを知らせる送り仮名だったのではないかというのです。
それというのも「念仏者は無碍の一道を往く者なり」とでもあるのならば「念仏者」という「人」をあらわすことになるが、
「無碍の一道」という「法」をあらわすのならば「念仏」が主語にならねばならないというのです。
なつほど「無碍の一道なり」という術語句に対すれば、主語は「念仏」でなければならないようです。
しかし「念仏者は無碍の一道なり」ということの理由を述べるにあたって「そのいはれいかんとならば、
信心の行者には‥‥」と「信心の行者(念仏者)」を主語とされています。そこで七条全体からみると、
「念仏者は無碍の一道を往くものなり」ということを省略して「念仏者は無碍の一道なり」といわれたとみるべきであろうと思います。
ともあれ第七条は、念仏は、神と悪魔を超え、どんな思想信仰にもまどわされない智慧の眼となるものであり、
また人間のあらゆる善悪のいとなみを超えた無上の真実ですから、この大道を歩む念仏者は、なにものにもさまたげることなく、
生死の迷いを超脱していくのだと言い切っていかれたものです。
▼無碍の智慧
無碍とは「さわりがない、へだてがない」という意味ですが、
聖典のなかには阿弥陀仏の徳をあらわす重要な言葉として実にしばしば用いられています。
仏のさとりのことを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」といい
「無上正遍道(この上なくすぐれた完全なさとりの智慧)」と訳されていますが、「菩提(智慧)」を「道」と翻訳したことについて、
曇鸞大師の『往生論註』には
「道」とは無碍どうなり。『経』(華厳経)にのたまはく、十方無碍人の、一道より生死を出づ」(意)といへり。
一道とは一無碍道なり。無碍とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。
かくのごときらの入不二の法門は、無碍の相なり。
遠い割れています。この文章は、親鸞聖人の『教行証文類』の「行分類」に、本願他力の徳をあらわす言葉として引用されています。
ここでの仏のことを「無碍人」とよばれていますが、一切は空であるとさとって、完全にとらわれをはなれた仏は、
何ものにも束縛されることのない自在の境地におられますから「自在無碍の人」というわけです。
生にもとらわれず、死にもとらわれず、生がすばらしい意味をもつように、死もまた尊い意味をもつとさとって、
生と死を一望のもとに見とおすようなめざめの智慧を完成した方を仏陀(真実にめざめた方)というのです。
そうした仏陀の前には、私ども凡夫が感じているような不安なものとしての生死はありません。
生死にあってしかも生死を超え、豊かな安らぎと充実を得ている境地を「生死すなわち涅槃なり」といわれたのです。
涅槃とは、とらわれをはなれ、愛と憎しみが消滅した安らかな状態ということで「寂滅」と翻訳されています。
一切のとらわれをはなれて、生と死、愛と憎しみといった二元的な対立を超えた仏陀は、
自己と他人とをわけへだてすることもありません。自他の垣根を取りはらって、
生きとし生けるすべてのものを完全に融けあい(円融)、万物のうえに自己を見、自身のなかに万人を見ていくような
自他一如の境地を円融無碍といいならわしています。
親鸞聖人が、しばしば阿弥陀仏の徳を称えて「円融無碍不可思議(えんにゅうむげふかしぎ)」といわれるのは、
私どもと一つに解け合い、万人の苦悩をわが事とみそなわし、背負いたまう大悲の智慧が阿弥陀仏の仏陀としての本質であり、
それは人間の思いはからいの及ばない尊い境地であるとたたえられたものです。
▼尽十方無碍光如来
阿弥陀仏とは、アミターバ(無量光)、アミターユス(無量寿)という徳をもって、
万人を救いたまう仏であるということを告げる名前でした。その無量光のいわれを『阿弥陀経』には
「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす」といわれています。
十方のあらゆる国をくまなく照らし、すべての衆生をさわりなく救いたもう、量り知れない光明の徳をもっておられるから
「阿弥陀仏」と名づけたてまつるというのです。これによって阿弥陀仏とは、その無碍の光明をもって、
万人をさわりなく自在に救いたまうことをあらわす名のりであったことがわかります。
阿弥陀仏を「無碍光仏」ともいうのは『大無量寿経』にも説かれています。しかし詳しく「尽十方無碍光如来」
といいあらわされたのは天親菩薩『浄土論』でした。その冒頭に、
世尊よ、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、
安楽国に生まれんと願いたてまつる。
といわれています。それは『無量寿経』を説いて、私どもに阿弥陀仏(尽十方無碍光如来)という救い主のいますことを
知らせたまうた教主釈尊にむかって、「世尊よ、わたしはあなたのみ教えにしたがって、
ふたごころなく尽十方無碍光如来をたのみたてまつり、安楽浄土に生まれさせていただこうと願っております」
と自身の領解(りょうげ)を述べられたものです。
この「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」が「南無阿弥陀仏」のいわれを見事に意訳した名号として、
親鸞聖人は特に重視されています。聖人は、『尊号真像銘文』のなかで「帰命」とは「南無」の訳語で
「如来の勅命(ちょくめい)にしたがう」ことだと釈されました。おおせにしたがいまかせることです。
しかし南無阿弥陀仏の六字全体を如来の名号(名のり)とみるときには、南無、帰命は「われにまかせよ」
という如来の仰せと領解するのが聖人の味わいかたでした。
「尽十方無碍光如来」の「十方」とは、東西南北の四方に、東北、東南、西南、西北の四隅(四唯)を加え、
さらに下方と上方をあわせたものですから、要するに十方とはあらゆる空間の総称です。また「尽」とは「つくす、ことごとく」
という意味ですから「尽十方」とは「十方世界を尽くして、ことごとく満ちたまへるなり」(同上)という如来の徳をあらわしています。
この宇宙に如来のいまさぬところはなく、如来の救済活動のゆきわたらぬ場所はないということを知らされる言葉でした。
たしかに第十八願に、十方の衆生を一人ももれなく救おうと誓願された如来であってみれば、私が、いつ、どこにいようと、
そこが如来の救済活動が行われている場所であり、如来にあわせていただく道場であるといわねばなりません。
▼煩悩悪行にさえられず
「無碍」とは、「衆生の煩悩悪行にさへられざるなり」といわれています。
私どもの煩悩罪業がどんなにはげしかろうとさわりなく救いたまう如来の救済力の絶対性を告げる言葉です。
そして「光如来」というのは、「この如来は光明なり」と知らせ「智慧のかたちなり」と知らせる言葉であるといわれています。
仏の光明は、太陽や月の光のような肉眼で見える物質としての光ではなくて、如来の大悲の智慧のはたらきをあらわすから、
心光とも、智慧光とも、よばれています。自他一如、生死一如とさとられた如来の円融(えんにゅう)無碍の智慧は、
「教えの言葉」となって万人にとどき、ちょうど光が闇を破るように、私どもの無智を破って、
阿弥陀仏という生の究極の依りどころ、四の帰するところのましますことを知らせています。
太陽は、太陽の光が、その存在をわたしに知らせているように、尽十方無碍光如来は、そのみ名という智慧の光の言葉のみが、
その存在をわたしに知らせ、無碍の救いに気づかせていくのです。さらにいえば帰命尽十方無碍光如来というみ名が、
大悲智慧の光であり、如来そのものなのです。私が南無阿弥陀仏と称え、帰命尽十方無碍光如来と称えていることは
「さわりなく救う」という光のみ言葉に包まれていることであり、如来そのものにあっていることだったのです。
『御消息集』に、尽十方無碍光如来というみ名を聞けば「よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、
へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり」といわれたのはそのゆえです。いま信心の行者は、
「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」無碍の一道をゆくものであるといわれたもの、
尽十方無碍光如来のさわりなき救いの光に包まれた護念せられているという信念をあらわされたものでした。
▼さわり多きに徳多し
阿弥陀仏の救済を一言でいいあらわせば「無碍」ということに尽きるわけですが、その「無碍」には、たんに「さわりがない」という消極的な意味だけではなくて、「さわりを転じて徳とする」という積極的ないわれもあります。親鸞聖人は『高僧和讃』に
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
罪障功徳の体となる
ほこりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
と讃詠されました。これによれば、無碍光の利益とは、仏の無碍の智慧は信心の内容となって私どもに与えられ、
その信心の智慧の無碍のはたらきによって煩悩がそのままさとりに変わり、さまざまなさわりが、
すばらしい功徳に転じていくというのです。それはちょうど、暖かい太陽の光をうけて、氷が溶けて水となるようなものです。
氷が多ければ多いほど水が多いように、さわりが多ければ多いほど、それが転じて得た徳は多いといわれるのです。
この「こほりおほきにみづおほし、さはりおほきに徳おほし」といい切れる心境がひらかれていくところに、
救われたという実感がでてまいります。
おもえば人生に、さまざまな障碍と挫折はつきものです。
この世に生まれたかぎり、老と病と死と、愛するものとの別離と、憎しみあうものとの出会いを避けて通ることはできないと、
すでに釈尊も説かれました。ただその障碍と挫折の苦悩が、空しい繰り言の材料となって終わるか、それとも聞法の縁となり、
仏法の真実を味わう機縁となって生かされていくかが問題なのです。日々の生活が順調に流れているときには、
むしろ人生への驚きも少なく、真剣に法を聞こうとする心も起こりにくいものです。むしろ逆境が尊い法の縁となり、
苦い後悔にさいなまれる心が、念仏を申す機縁となっていくことの方が多いものです。
▼人生は道場
『唯摩経』に「煩悩はこれ道場なり…三界はこれ道場なり」といわれています。愚かに浅ましい愛憎(あいぞう)の煩悩が、
仏法の真実にあう道場であり、三界とよばれるこの迷いの苦界が、
浄土こそ帰するべき真実の世界であることを思い知らせてくれる道場であるということです。
こうして順境も逆境も人生はすべて仏法の真実をわが身にたしかめていく道場であると領解する心が開かれたとき、
人生に無意味なものはなくなっていきます。あらゆるものの中に如来はいますと気づかされます。
すべてのものから謙虚(けんきょ)に真実を聞こうと心の耳をすます信心に行者の前には、
悪魔・外道(げどう)も全知識(ぜんじしき)と転じていくいわれもあります。
それゆえ「魔界・外道も障碍することなし」といわれたのでしょう。
このように順縁、逆縁を問わず、あらゆることがらを念仏の縁とし、聞法の縁としていく心を菩提心というのです。
阿弥陀仏の本願によびさまされて、人間のいとなみを虚仮(こけ)と知り、如来こそ真実と仰いでいく信心は、
如来よりたまわった大菩提心であって、さとりにふさわしい心であと親鸞聖人は仰せられました。
それゆえ天地に満ちる善神(ぜんじん)は信心の行者を敬い護り、悪鬼神(あくきじん)は恐れて姿をかくすというのです。
聖人は『現世利益和讃』に
天神・地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり
願力不思議の信心は
大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神
みなことごとくおそれるなり
と詠まれていますが、それをこの『歎異抄』では「信心の行者には、天神・地祇も敬服し‥‥」といわれたのでした。
これによって神々のたたりをおそれ、怨霊のさわりにおののいている人々に、
何ものもおそれることなく心豊かに生きる念仏の大道のあることを教えていかれたのでした。
梯 実円 先生