◇親鸞は弟子一人ももたず 念仏の同行を一人でも多く、自分の門下に引き入れたい。わが門下の同行は一人たりとも手放したくない。こういう思いは、親鸞聖人御在世の頃から、すでにその門弟たちの間に起こっていたようです。わが身の名誉や、経済的な利益を背景としたこのような争奪に躍起になるあまり、彼らは、聖人のみ教えに背く重大なまちがいを犯してしまうのです。 今号では、「わが弟子、ひとの弟子という相論」のあやまちについて語っていただきます。 |
【註釈版本文】
専修(せんじゅう)念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあずかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼(こうりょう)のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、
往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然(じねん)のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
【意 訳】
本願を信じ念仏一行を専修する人たちのなかで、自分の弟子だ、人の弟子だというような言い争いがあるようですが、
それは思いもよらないことです。
親鸞は弟子一人ももっていません。
そのわけは、私のはからいによって人に念仏を申させているのであれば、その人をわが弟子ともいえましょうが、
阿弥陀仏の御はからいによって念仏を申しておられる人を、私の弟子であるということは、この上もなくぶしつけなことです。
人の融合は思いのままにならないもので、一緒に連れ添うべき縁があれば連れとなり、
離れねばならない縁にもよおされたならば離れていくこともありますのに、「師に背いて、他の人に従って念仏するようなものは、
浄土に往生することはできない」などということは言語道断です。阿弥陀如来から賜った信心を、
自分が与えたもののように、取り返そうとでもいうのでしょうか。そんなことは決してあってはならないことです。
しかしよくよくみ教えを聞き、本願他力の道理に従っていくならば、おのずと、阿弥陀仏の御恩も知り、
また本願をたのめと教えてくれた師の恩をも知るようになるはずです、と仰せられました。
▼親鸞聖人と関東の門弟
親鸞聖人は四十二歳のとき越後から関東へ移られましたが、おそらく性信(しょうしん)房の招きに応じられたからであろうと思います。
すでに常陸を中心に北関東に相当な勢力をもつ念仏聖であった性信房は、法然聖人の高弟であった親鸞聖人を招いて、
浄土の教えを伝授していただこうとしたようです。法然聖人から『選択集』を伝授され、
その御真影まで拝受されていた親鸞聖人をとおして、法然聖人の流れをくむということは、性信房やその一門の人たちにとって、
自身の信心を確立するためにも、また聖たちの社会で、正統性を承認されるために充分魅力的なことでした。
やがて親鸞聖人の学徳をしたって、他の系統の念仏聖や山伏などもその門をたたくようになり、
また在家の人々で新たに聖人から法名をいただき念仏聖となる人たちもたくさん育ってきました。
こうした門弟たちは、それぞれ有縁の在所に道場を建て、近隣の人々に専修念仏の法義を伝え門徒集団を形成していきました。
門徒集団は、それぞれ地名でよばれるようになります。
性信を指導者とする横曽根(よこそね)門徒・真仏の高田門徒・順信の鹿島門徒・ 教念の布川(ぬのかわ)門徒・
覚円(かくえん)の浅香門徒・専信(せんしん)の三河門徒などは特に有名です。
これらの人々はまた輩下に多くの道上主を門弟としてもっていました。
▼信楽房の故事
こうして門弟や門徒を私物視していくようになりますと、一種の縄張り意識が生まれ、門徒争いが生まれてきます。
このような傾向は聖人の御在世中からありましたが、滅後には一そうはげしくなっていったようです。
覚如上人の『改邪鈔』にも「わが同行人の同行と簡別して、これを相論する、いはれなき事」という一段をもうけて、
人の離合集散は、それぞれの縁によることであるから、同行が他の集団に移るようなことがあったとしても、
その人は往生できないなどといって争ったりしてはならないといましめられています。
聖人が「親鸞は弟子一人も持たず」と仰せられたのは、覚如(かくにょ)聖人の『口伝鈔(くでんしょう)』にも伝えられていまして、
そこには次のようなエピソードが記されています。
常陸国の新堤に信楽房という人がいて、聖人について浄土の教えを学ぶために、京都までたずねてきて入門した人でした。
しかし親鸞聖人の教えがどうしても納得できないというので聖人に反抗し、門弟を離れて郷里へ帰ることになりました。
いよいよ出て行くという時に、聖人の内弟子であった連位房が、「信楽房にさずけられている本尊やお聖教をとりかえされるべきではありませんか。特に表紙の題号の下に〈釈親鸞〉と聖人が御自筆で署名されたお聖教が多いが、門弟を離れてしまえば、おそらく粗末にあつかうでしょうから」
と申しあげました。その当時、本尊や聖教を伝授することは師弟関係を証明するものとみなされていましたから、
破門になれば、当然、取りかえすのが常識だったからです。
ところが聖人は彼の申し出を拒絶されました。
「本尊や聖教をとりかえすというようなことは決してしてはならないことです。そのわけは、親鸞はわが弟子というようなものは、
一人ももっていないからです。人をわが弟子とよべるような何事も私は教えていません。念仏往生の信心は、
弥陀、釈迦二尊のおてまわしによって恵み与えられたものであって、この親鸞がさずけたものでは決してありません。
私もあなた方も如来のお弟子なのですから、みな同じ浄土への道を歩ませていただいている同行というべきです。
近ごろは互いに意見がちがって別れるときに、本尊や聖教をとりかえたり、つけ与えた房号(法名)もとりかえし、
信心までとりかえすというようなことが常識になっているようですが、決してそのようなことはすべきではありません。
元々本尊やお聖教は、如来が衆生利益のためにお恵みくださったものですから、親鸞と仲たがいをして、他の人の門弟になられたものですから、我がもの顔にとりかえそうなどとすべきではありません。如来の教法は、
すべての人に行きわたるようにと願いをこめて与えられているものです。法師が憎ければ、その袈裟まで憎いというように、
親鸞が憎いからといって、私の名の書いてあるお聖教を、山野に捨ててしまうようなことがたとえあったとしても、その地で、
そのお聖教にふれたものには、たとえ畜生であっても仏縁をむすんでくださるにちがいありません。少しでも広く、
多くのものに縁を結びたいという如来の御心にかなうためにも、本尊や聖教を世俗の財宝のように私物視し、
とりかえそうというようなことは、してはならないのです」
と仰せられたといわれています。
この信楽房の事件は大変有名でしたので、覚如上人の『改邪鈔』にもでてまいります。 おそらく『歎異抄』もこのときの御法話をつたえているのでしょう。ただ信楽房はのちに心をひるがえして、 ふたたび聖人のもとへ帰ってきました。『親鸞聖人門侶交名牒』にその名が出ていますし、 いわゆる門弟二十四輩のなかにも名をつらねる有力な門弟となっていった人です。 おそらく聖人のこうしたお言葉を伝え聞いて感動して回心したのでしょう。 |
▼弟子の座に徹する
『口伝鈔』によれば、親鸞聖人は、「人師、戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願」されたといわれています。
人の師となって法門伝授を行ったり、人々に戒律を授ける戒師となったりせず、
ただひたすら仏法を聴聞しつづけますと法然聖人の前で誓われたというのです。いいかえれば、生涯、弟子の座にあって、
決して師の位置につかないとご自身のあり方をきっぱりと規定して生きて行かれた方だったということです。
さきにものべましたように、聖人は、四十二歳で関東へ移住し、性信房をはじめ多くの念仏の聖たちに本願念仏の教えを説き、
最終的には百人に及ぶほどの門弟を育て、万をもって数えるほどの門徒と仏縁を結んでいかれました。その門弟たちは、
聖人を心からしたい、連位房のごときは夢で見たとおり聖人を阿弥陀仏の化身と信じて疑わなかったほどでした。
『歎異抄』の著者も、聖人を無上の師と敬慕し、そののみ言葉を光と仰いで生きていった人です。
しかし聖人は彼らを門弟としてではなく同胞(どうぼう)・同行(どうぎょう)として対応されていました。それは一つには、
自分はどこまでも法然聖人の弟子として、その教えをお取り次ぎをするという姿勢をとっておられらからです。
つまり門弟たちは法然門下の兄弟弟子であるという思いをもっておられたわけです。
だからたとえば法然聖人の法語や御消息を集めた『西方指南鈔』を編纂して門弟に与えたり、
法然門下で一ばん信頼できる聖覚法印や隆寛律師のお書きになった聖教を写し、
これらは法然聖人の教えを正しく伝えているからよく読むようにと推賞されているのはその故です。
ことに晩年のお聖教やお手紙には、法然聖人の御法話を引用して、専修念仏のこころを解説されていました。専修念仏とは、
一切の自力の行を選び捨て、他力の念仏一行を往生と選び定め、万人を平等に救おうと誓われた
選択(せんじゃく)本願を信じて念仏することで、法然上人の中核をいいあらわした言葉です。
▼真の仏弟子
このように親鸞聖人は、自身を法然上人の弟子と位置づけられたわけですが、さらに根元的には釈迦、
諸仏の弟子であるといういわれもありました。「信文類」の真仏弟子釈に、
真の仏弟子といふは、真の言は偽(ぎ)に対し仮に対するなり。
弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信
行によりてかならず大涅槃を超証(ちょうしょう)すべきがゆゑに、
真の仏弟子といふ
といわれています。
これは善導大師が、釈尊の教説に随順するものは、「真仏弟子」であるといわれた言葉を註釈されたものです。
偽の仏弟子とは、表面は仏教とのような姿をしていながら、内心は仏教以外の宗教に帰依(きえ)しているようなものをいいい、
仮の仏弟子とは、念仏を与えて万人を平等に救おうとおもしめす仏の本意に気づかず、
自力の道にとどまっている聖道門(しょうどうもん)の修行者のことです。
それに対して、釈尊が、「本願を信じ、念仏を申さば、仏になる」と教えられた言葉を信じて、
阿弥陀仏の本願のお救いに身をまかせて念仏する人は、仏の本意にかなった人ですから、真実の仏弟子であるといわれるのです。
このような人は、金剛(ダイヤモンド)のようなすばらしい智慧の徳 をもった信心を如来よりたまわっており、
この一生が終われば浄土にいたって、ただちに煩悩を寂滅(じゃくめつ)し完全なさとりを実現せられる、
そんなすばらしい徳をいただいているから、真の仏弟子であるというわけです。
「法然と、その一門の専修念仏者は、釈尊の本意に背いた邪道のやからである」と激しく罵倒し、
あげくのはてには、国家権力を動かして専修念仏を幾度も禁制にし、念仏者を、あるいは死刑にし、
あるいは遠流の刑に処したのは、南都北嶺の仏教徒たちでした。
聖人もまた承元の念仏禁止に連鎖して越後に流刑に処せられた一人でした。
こうした状況のなかで、念仏者は真の仏弟子であるという善導大師のお言葉は、専修念仏者をどんなにか勇気づけ、支えてくれたかしれません。煩悩にまみれた浅ましい生活しかできない愚かな身を、「それでも本願を信じ念仏するそなたは、真の仏弟子である」と仰せくださる仏祖のみ言葉に感動しながら生きていかれたのが親鸞聖人でした。いいかえれば聖人は、「仏弟子」であることをよろこびとしておられたのです。
それでもともすれば浅ましい名利心にたぶらかされて、師の立場に立ち、一段と高いところから人々に教訓をたれようとする自分をたえず自己批判しつづけられました。
是非しらず邪正もわかぬ
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり
という和讃は聞くものの心にいいしれぬ感動をよび起こします。
▼念仏者の尊厳性
『改邪鈔』には「弟子と称して、同行等侶を自専のあまり放言・悪口すること、いはれなき事」という一条をあげ、
念仏の同行を自分の思いのままにあつかい、言いたい放題にののしるようなことをしてはならないと誡められています。
すなわち善導大師は、念仏者を好人、妙好人、最勝人、上人、上々人、とほめられており、また、
祖師(親鸞)の仰せにも、「それがしはまつたく弟子一人ももたず。そのゆゑは、
弥陀の本願をたもたしむるほかはなにごとををしへてか弟子と号せん。弥陀の本願は仏智他力の授けたまふところなり。
しかればみなともの同行なり、わたくしの弟子にあらず」と云々。
これによりてたがひに仰崇の礼儀をただしく昵近(じつきん)の芳好をなすべしとなり
といわれています。
念仏者を『観経』には白蓮華(分陀利華)のような尊い人とたとえ、善導大師はそのこころによって妙好人、
最勝人等とたたえ、親鸞聖人は「弟子一人ももたず」と仰せられたのですから、念仏者は互いに敬意をもって礼儀正しく対応し、
深い親愛の情をもって交際すべきであるといわれるのです。
それが同じ阿弥陀仏の「御いのち」をたまわった仏弟子としてのあり方であり、釈迦、諸仏の弟子として、
浄土の旅をともにする同行の倫理であるというのでしょう。
そしてまたこのような阿弥陀仏の本願、釈迦、諸仏の教化、祖師がたのおすすめの尊さを聞くにつけても、
そのいわれをいま私にお取りつぎくださっている全知識(師)の御教導のありがたさも一しお身にしみて味わわれてくるものです。
そこにおのずから「仏恩を知り、師の恩をも知る」という道理もうなずけます。
こうして浄土真宗の念仏者とは、つねに聞法者、弟子の座にあって、つねに仏恩、師恩を仰ぐものであり、
決して自身を師の位置に上げず、同行あい敬愛しながら浄土をめざして生きようとするものだといえましょう。
梯 実円 先生