【註釈版本文】
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあざれば非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。
【意 訳】
念仏は、名号を称えている私どもの立場からいえば行でもなく、善でもありません。
南無阿弥陀仏と称えて往生の行にしょうと、自分ではからい決めて行(おこな)っているような行ではないから、行ではないというのです。
また名号を称えて善根功徳を積み重ねていこうとはからっているわけではありませんから、善ではないというのです。
念仏は、阿弥陀仏から回向された完全な他力の行であって、称えるものの自力をはからないものであるから、
私どもの立場からいえば、行でもなく、善でもないのであると仰せられました。
▼『宝号経』と『弥陀経義集』
『歎異抄』第八条は、念仏は行者の立場からいえば「非行非善」であるという言葉をもって、
念仏が他力の行であるということを明らかにしようとされたものです。
「念仏は行者のために非行・非善なり」という不思議なことばは『宝号経』の経文を少し変えられたもののようです。
『親鸞聖人御消息』第四十二通(『末灯鈔』第二十二通)に
『宝号経』にもたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。
名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。
本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。
といわれています。これはもと『末灯鈔』第二十二通に収録されていた御法話ではありません。
おそらく門弟の誰かが、『宝号経』に説かれている「非行非善」ということについて質問したものに応答されたものでしょう。
あるいは『歎異抄』の著者も同じようなことを聖人におたずねしたのかもしれません。
ところで「非行非善」という言葉の出処である『宝号経』は、『宝号王経』ともよばれていたようですが、中国の経典目録にもなく、
現存する『大蔵経』のなかにも存在しない経典で、他に引用されたものもなく、わずかに『弥陀経義集』のなかに引用文があるばかりです。
この『弥陀経義集』という書物は、善導大師のお聖教のなかからの文章を拾い集めて、一見、
大師の著述のようにみせかけているものですが、もちろん善導大師のものではありません。著者は不明ですが、
古写本の奥書には「寛元二年四月に尊阿が書写した」旨が記されていますから少なくともそのころには存在していたことがわかります。
おそらく成立も、それをあまりさかのぼらないころであったおもいます。
この書のなかには、浄土三部経の文も引用されていますが、そのほかに『宝華経』『大仏経』『宝号王経』などが引かれています。
しかし三部経のほかは、経典目録にもなく、現存していないばかりか、引用されている文章からみても、
どうもそのころに為作されたものではないかといわれています。江戸時代の終わりの学者で、
『歎異抄聞記』の著者として有名な妙音院了詳師などは、親鸞聖人の書物を見たことのある一念義系の人がこうした偽経をつくり、
『弥陀経義集』も書いていたのであろうとまでいっています。そこまで言い切れるかどうか資料的にたしかめることはできませんが、
『弥陀経義集』が善導大師のものではなく、『宝号王経』も真偽未詳の文献であることはたしかです。
親鸞聖人は『弥陀経義集』の存在を知っておられました。というのは、門弟の高田の慶信房が聖人にさしだした手紙、
いわゆる慶信上書(親鸞聖人御消息)に、『弥陀経義集』の名をあげており、聖人の門弟たちによく読まれていたようです。
しかし親鸞聖人は『弥陀経義集』についてはなにもおっしゃっていません。
ただ、そこに引用されている『宝号王経』の「非行非善」ということばは用いておられますから、少なくともこの言葉そのものは、
ただしい法義をあらわしているとみられていたはずです。『宝号王経』がたとえ偽経であったとしても、親鸞聖人が、このお言葉は、
本願の念仏のいわれをあらわすのに適切であるといって依用されたのは信順しなければなりません。もっともその場合は、
聖人のお心にかなって用いられたことばだけに限るべきでしょう。
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■名号の善徳
名号が最高の善であるということは、すでに法然聖人が『選択集』本願章にくわしく述べられています。
名号には阿弥陀仏が成就された一切の功徳がおさまっていて、いわば、如来そのものであるから、
それをいただいて称えるものを往生せしめ、成仏せしめる徳をもっている。
それゆえ最勝の行であるといわれるのです。
親鸞聖人も「この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり」といわれました。 |
▼名号の行徳
また名号が行であるというのは、それは阿弥陀仏が修行されたあらゆる行の徳をまどかにそなえていて、
すべての人々の往生成仏のための行となるように成就されているからです。そのことを「正信偈」には「本願の名号は正定の業なり」といい、
また、「化身土文類(けしんどもんるい)」には「万行円備(まんぎょうえんび)の嘉号(かごう)」とたたえられました。
正定業(しょうじょうごう)とは、名号は、正しく往生が決定(けつじょう)する徳をもつ行であるということであり、万行円備とは、
仏になるために必要な、あらゆる行の徳が欠けめなくそなわっているということです。
このように阿弥陀仏の名号には、仏徳のすべてがこもっていて、それをいただいて称えるものを浄土に生まれしめ、
阿弥陀仏と同じさとりを得しめる すばらしい徳をもっていることを「名号はこれ善なり行なり」といわれたのです。
つぎに「行といふは善をするについていふことばなり」といわれたのは、行と善との関係をあらわされたもので、
善なる徳目を実践することを行という定義されたわけです。もともと善悪というのは、行為に対する価値判断のことばで、
自他を安らかならしめる行いを善行といい、自他を破滅させる行いを悪行というのですが、いまは、
仏によって悟りへの道と定められているような善を行うのとを行というといわれるのです。
▼本願の誓約
ところで南無阿弥陀仏が、万人を往生せしめ成仏せしめる善であり、行であるのは、阿弥陀仏が本願にあらわし誓願されたからです。
四十八願を要約された「重誓偈(じゅうせいげ)」第二誓に
われ無量劫(むりょうこう)において、大施主となりて、
あなねくもろもろの貧苦(びんぐ)を救はずは、
誓ひて正覚を成らじ。
といい、善根功徳(ぜんごんくどく)を全くもたず、心苦しく苦しむものを救うために、私は永劫にわたって偉大な施し主となり、
万人に功徳の宝を施し与えようと誓われています。
そして第三誓には、どのようにして施すかという方法について、
われ仏道を成るに至りて、名声(みょうしょう)十方に超(こ)えん。
究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
と誓われました。わが名声、すなわち仏のみ名を十方の衆生に聞かせて救おうというのです。
名号の仏徳のすべてをこめて人々に施し、それを聞き、みなを称えるものに仏の万徳がまどかにやどり、心貧しきものにも、
心豊かに生死を超えることができるようにしようというのが阿弥陀仏の本願でした。
この本願があるから名号が善であり行でありえたわけです。
▼非行非善は自力の否定
このように
阿弥陀仏に本願は、善のないものの善となり、行のないものの行となって、
万人を平等に救うため南無阿弥陀仏を往生の行として選びとって回向し、
これを疑いなく受け取って称えるものを仏にすると御約束されています。その本願のみ名を心得たならば、
私の方でさまざまな善を行じて往生しようとはからう必要のないことは勿論(もちろん)、念仏も、
それを行じて善根をつもうとするような廃悪衆善(悪をやめ、善をおさめる)の行ではなく、
万行円備(まんぎょうえんび)の嘉号(かごう)をはからいなくいただいて称える信順の行であるというべきです。
そのことを聖人は「本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。
かるがゆゑに他力とは申すなり」といわれてのです。
このようにみてくると『宝号経』に「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ念仏をたもつなり」といわれたのは、
如来より決定往生の行としてたまわった本願の名号は、わがはからいをまじえることなく信順して行ずべきであって、
善根功徳を積もうというような自力のはからいをもって行ずべきものではないといわれたことになります。
「
非行非善」とは、自力のはからいを否定して他力に帰すべきことを告げていることがわかります。
▼たまわりたる行信
『宝号経』には「
弥陀の本願は行にあらず、善にあらず」といわれていたのを、
『歎異抄』では「
念仏は行者のためには非行・非善なり」といいかえてあります。
それは「
弥陀の本願の念仏は、それを称える行者の立場からいえば、行でもなく、善でもない」
というふうに説明的にいわれたもので意味は同じであるといえましょう。
すでにのべたように、念仏は如来のがわにおいて、凡夫が浄土にいたるのに必要な万善をまどかにそなえた大行として
選択して回向された本願の行でした。それゆえ選択本願の行といわれるのです。すなわち
念仏は私が選び定めた行ではなくて、
如来が選んで与えたもうた道であり、わがはからいによって念仏する身になったのではなくて、弥陀、釈迦、諸仏の、
さまざまなお育てをうけて、念仏者たらしめられたのでした。
親鸞聖人はそのことを、「たまたま行信を獲ば、
遠く宿縁を慶べ」と仰せられました。
「行信を獲る」とは、「南無(信)阿弥陀仏(行)」 をいただいたことで、本願を信じ、阿弥陀仏のみ名を称える身になっていることです。
このわが身の事実のうえに、はてしない昔からの如来のお育てを慶び、本願の結実を仰いでおられるのです。
▼他力ということ
法然聖人の門弟にも、本願を信ずることと、念仏することは、私どもがなさねばならない自力の善行であって、
それが如来の救済にあずかるための条件であると考えた人々もありました。つまり私の信心、念仏の善根力(自力)と、
如来の本願力(他力)とが相俟(あいま)って救いが成立すると理解されたわけです。
それに対して
親鸞聖人は、私が本願を信ずることも、念仏を申すことも、すべて阿弥陀仏の本願力のたまものであると
領解(りょうげ)されたのでした。如来に背き果てて、本願を信ずる能力すらない不信心の身に、「そのままをわれにまかせよ(南無)、
必ずたすける(阿弥陀仏)」 とよびかけて私の疑いとためらいを破り、「おおせにしたがう」信心となり、
「お願いだから念仏してくれよ」とよびかけ、念仏の声となって私の上に実現しているのが阿弥陀仏の本願のはたらきです。
さらにいえば、
阿弥陀仏は南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)というみことばとなって、私の上にとどき、信心となり、念仏となって、
私を念仏者にたらしめ、浄土にむかえとるはたらきそのものであって、それを本願力回向と名づけられたのが親鸞聖人でした。
聖人はそれを他力といわれたのです。
こうして
他力とは、私どもを念仏者にしてくださる力であり、私を念仏者にしてくださったその力が、私を涅槃(ねはん)の浄土に
生まれさせてくれるのです。念仏するのは私の力、浄土へ迎えるのは如来の力というふうに分断してはならないのです。
▼念仏は如来のよび声
念仏が、私のはたらきではなくて、如来の本願他力の具体的なあらわれであると受け取るならば、「念仏する」という「おこない」は、
私の「おこない」であるままが、如来の「おこない」とは、何よりもまず如来に背きつづける私をよびさまして、如来のいますことに気づかせ、
浄土という、安らかに帰る「いのち」の故郷のあることを知らせるというよびさましの「おこない」です。
親鸞聖人は「行文類」の六字釈で、南無阿弥陀仏の南無、すなわち帰命ということばについて、「
帰命は本願招喚の勅命なり」
という妙釈をほどこされたことはよく知られています。これは、帰命、南無ということばに寄せて、南無阿弥陀仏とは、
如来がわたしを招き呼びつづけていたまう本願のみ声であると領解されたことをあらわしていました。
南無阿弥陀仏を、如来のがわからいえば、「
われをたのめ、必ずたすける」という意味をあらわしており、したがって、
それを聞きうけている私のがわからいえば「必ずたすかると、たのみまかせる」すがたをあらわしています。
南無阿弥陀仏とみ名を称えていることは、そのままが、如来の招喚がひびいていることでもあり、それを聞いて
よびさまされているすがたでもあるということになります。すなわち念仏という私の行(おこない)は、
本願招喚(ほんがんしょうかん)という如来の行(おこない)であり、そのままが、疑いなくおおせにしたがう信心でもあるのです。
親鸞聖人が「行文類」に
念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏は
すなはちこれ正念なりと、知るべしと。
といわれたのはこのような本願の念仏のいわれを顕わされたものです。
『歎異抄』の第八条で、念仏は行者のはからいをはなれた行であるから、非行非善であるといわれたとき、それは、
このような意味をもった本願他力の行であることをあらわしていたのです。
梯 実円 先生