極楽往生の道
 これまで、第一条の法語を通じて、親鸞聖人が見とどけてくださった、本願の正しい味わい方について尋ねてまいりました。今号からは、念仏の教えに疑いをいだいて上京してきた、関東の念仏者に、聖人みずからの念仏の信心を率直に告白してゆく、という二条に入ります。そのなか今回は、第二条の法語の背景と、関東の念仏者たちが問いたださずにはおれなかった「往生極楽のみち」とはいかなる道であるか、ということについて講じていただきます。

第二条【註釈版本文】
 おのおのの十余箇国(じゅうよかこく)のさかひをこえて、身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、
ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
 しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知(ぞんぢ)し、また法文等(ほうもんとう)をもししりたるらんと、
こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
 もししかれば、南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゆしき学生(がくしょう)たちおはく座(おわ)せられて候ふなれば、
かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
 総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

 そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、
すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。
 いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、
善導の御釈虚(おんしゃくきょ)言(ごん)したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、
またもつてむなしかるべからず候ふか。
 詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。このうへは、
念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

【意 訳】
 あなた方が、十幾つもの国々をこえ、いのちの危険もかえりみず、わたしを訪ねてきてくださった、
その目的は、極楽に生まれてゆく道を問いただしたいという、ただその一事のためでした。
 ところが、もしあなたがたが、親鸞は念仏以外に、往生の道を知っているのではないか、とか、
あるいは往生に関する特別の教説なども知っているのではないか、
その真相を知りたいものだと思っておられるのでしたら、それは大きな誤解です。
 もしそういうことを聞きたいのならば、南都(奈良の興福寺などの諸大寺)や、北嶺(ほくれい)(比叡山)には、
念仏以外の道や教義の研究をしている、すぐれた学僧たちがたくさんおいでになるから、その人々にでもお会いになって、
往生について肝要な教えをくわしくおたずねになるがよろしい。
 親鸞においては、ただひとすじに念仏して、阿弥陀仏にたすけていただきなさいと教えたもうたよき人、
法然上人の仰せをいただいて信じているだけで、そのほかの特別のわけなどありません。
 念仏するものは地獄におちると、いいおどす人々がいるとのことですが、念仏が、本当に浄土に生まれる因(たね)であるのか、
それとも地獄におちる業(因)であるのか、わたしはまったく知りません。
 かりに法然上人にあざむかれて、念仏して地獄におちたとしても、しかしわたしは決して後悔はいたしません。
 それというのも、ほかの修行をはげんだならば仏になられたはずの身が、念仏を申したばかりに地獄におちたとでも言うのならば、
あざむかれた、という後悔もありましょうが、
 いずれの修行にもたえられない愚悪の身には、しょせん、地獄こそ定まれるすみかであるといわねばなりますまい。
 しかし、このような愚悪(ぐあく)の身を救おうとおぼしめして、念仏を往生の道と選び定めたもうた、
弥陀の本願がまことであらせられるならば、その仏説に随順して本願念仏のこころをあらわされた、
善導大師の御釈にうそのあるはずがありません。善導大師の御釈がまことであるならば、ひとえに善導大師の教えに準拠(じゅんきょ)して説き示された法然上人の念仏のみ教えが、どうしてうそいつわりでありましょう。法然上人の仰せがまことであるならば、
その教えのままに信じているこの親鸞の申すこともあながちにいたずらごとではありまますまい。
 つづまるところわたしの信心は、この通りです。このうえは、念仏の教えをうけいれて信じてゆかれるか、
それともまた縁なき道としてお捨てになるかは、あなたがた一人一人のお心のままになさるがよろしい、と仰せられました。


▼命がけの師弟の問答


 『歎異抄』のなかでも、とくにこの第二条は、ただならぬ雰囲気をもったドラマチィクな法語です。
 まず北関東から京都まで、十余カ国をこえ、数百キロにのぼる危険な 旅をつづけて、
親鸞聖人を尋ねてきた幾人かの念仏者たちの思いつめた鋭いまなざしが感じられます。彼らは、
極楽に往生してゆくほんとうの道筋を問いただすという、ただ一つの目的に、いのちをかけている求道者たちでした。
それもただ念仏の教えに疑いをもっているだけではなく、親鸞聖人自身についても、
はっきりと問いただしておきたい疑惑をいだいていたようです。
 その勢でしょう。彼らの問いを受けて立つ聖人の応答の姿勢には、つねなみとはおもえない、きびしさがみうけられます。
それは単に門弟を教えさとす師としての態度ではなく、自分自身の念仏の信心を真剣に、率直に告白し、
証言するかのようにみえます。ことに最後に、
   詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし、このうえは、
   念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。

と、まるで突き放すかのようなきびしい口調で結ばれた言葉には、
心なしか淋しげな孤独のかげりを感ずるのはわたしだけでしょうか。
 ともあれ、このご法話の背後には、問いただすものにも、応答されるがわにも、
命がけにならざるをえない状況があったにちがいありません。


▼背後に横たわる悲しい事件


 おそらくそれは、建長七、八年頃にピークを迎えた建長の法難とよばれる、常陸の国(茨城県)を中心にした念仏弾圧事件と、
その最中にまきおこった善鸞事件とよばれる悲しい出来事でした。
もっともこの両事件は、親鸞聖人の『御消息』などを通してわずかに知られるばかりで、まだその全貌はわかっていません。
 建長の法難というのは、建長三,四年ごろから、常陸を中心とした聖人の門弟たちが、他宗をそしり、神神を軽蔑し、
人倫を乱すという口実で、地頭、名主といった在地権力者から圧迫をうけはじめ、建長七,八年ごろには、念仏の伝道を禁じられ、
土地を追放された人も出たようです。しかし性信坊などが鎌倉幕府へ出頭して事件の解決のために力をくつし、
ついに念仏の伝道を承認させるにいたったものです。
 この念仏弾圧事件の最中に起こった善鸞事件というのは、建長八年五月二十九日、当時八十四歳であった聖人が、
さきにみずからの名代として関東につかわされた息男、慈信坊善鸞を、仏法に背き、念仏者をまどわしたかどにより、
親子の縁を切らねばならなかったという悲しい出来事です。 
 事件のくわしいことについてはわかりませんが、親とこの縁を絶つということを善鸞に通告された義絶状と、
性信房を通して関東在住の門弟一同にそのことを公表された書状などによって、その一端を知ることが出来ます。
それによれば善鸞は聖人の名代として関東へつかわされたという地位を利用して、自分は、父、親鸞からある夜、
ひそかに往生極楽の秘法をさずけられたといい、
一般の門弟たちが聞き伝えているような念仏往生の教えでは救いにあずかれないと説いたようです。
 義絶状によれば、
    往生極楽の大事をいひまどはして、常陸・下野(しもつけ)の念仏者をまどはし、
    親にそらごとをいひつけたること、こころうきことなり。
    第十八の本願をば、しぼしめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、
    まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。
  
と記されています。善鸞のまどわしによって、常陸の「おほぶの中太郎入道」(平太郎)の門徒、九十人あまりが、
中太郎をすてて善鸞のもとへいってしまうというような事件もおきていたことが、『御消息』などでたしかめることができます。
 こうして外からは在地権力者の弾圧をうけ、内からは善鸞のまどわしによって、苦境に追いつめられた人や、念仏に疑惑を生じ、
心の依りどころを見失ってしまった人々がたくさんでてきました。その人々のなかには、もはや聖人の口から直接、
ことの真相をあきらかにしてもらい、往生極楽の道を問いただす以外にないと思いつめるものもいました。
こうしてはるばるとたずねてきた門弟たちを前にして、わが子に背かれた悲しみといきどおりをおさえ、
わが子のおかした罪の重さを老いの身に引きうけながら、老聖人が「よき人」より聞き伝えられた「わが道、わが信心」を
赤裸々に語ってゆかれたのがこの法語だったのです。


▼ひたむきな聞法がひきだした珠玉の法語


「不惜身命(ふしゃくしんみょう)、但惜無常道(たんしゃくしんみょう)」(身命を惜しまず、ただ無常道を惜しむ)
という聖語があります。仏道を歩もうとするものは、当然そうあらねばならないでしょうが、現実には、身命をかえりみず、
ただひとすじに真実の道を歩みつづける人はきわめてまれです。わたしのようななまけ者は、「不惜身命」と聞いただけで、
身のすくむような申し訳なさを感ずるばかりです。
 『歎異抄』の第二条は、文字通り「不惜身命」の聞法をした人の魂の記録です。こうしたひたむきな聞法者がおられたからこそ、
いのちがけの聞法をしたことのないわたしにも、親鸞聖人のすばらしい法語にあわせていただけるのだとおもうと、
いまさらながら先達の恩徳をおもわずにはおれません。
 「十余箇国のさかひをこえて」とは、北関東~京都までの道をあらわします。東海道筋を通ってきたとすると、
常陸、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、近江、山城と十二カ国を経過することになります。
里数にすれば百五十里をはるかにこえたでしょうし、日数は二十日前後はかかったに違いありません。長雨にふりこめられたり、
病気やけがでもすれば、もっとかかったでしょう。往復するだけで、四,五十日もかかる長旅がどんなに難儀なものだったのか、
今日では想像もできません。
 こうした危険をおかしてまで聞きだそうとした「往生極楽の道」が、この人たちにとって何であったのか、
ということを真剣に問い直してみる必要がありましょう。


▼往生極楽の道ー凡夫が生死を超えることのできる唯一の道


 法然聖人は、『選択本願念仏集』のなかで
  「それすみやかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を聞きて、選んで浄土門に入れ」
と仰せられました。
 浄土に生まれてゆくということは、「生死をこえてゆく」ということでした。
親鸞聖人が、はじめて法然上人を東山の吉水の草庵にたずねて聞きひらかれた「後世のたすかる道」を恵信尼公(えしんにこう)は
「生死いぢべき道」であったと記されています。
すなわち「生死いずべき道」を「往生極楽の道」として教えたもうたのが浄土門の教説であり、
本願の念仏を極楽に生まれてゆく道といただいて、生と死をこえていったのが浄土門の古(こ)聖先達(しょうせんだつ)だったのです。
 法然上人や親鸞聖人が、渾身(こんしん)の力をふりしぼって突きとめてゆかれた 「往生極楽の道」は、
愛欲と憎悪(ぞうお)にまみれながら、生にまどい、死におびえつづける愚かな凡夫に開かれは、
ただ一つの生死を超脱(ちょうだつ)してゆく道でした。


▼「いのち」をかけて悔いのない道


 煩悩にほんろうされながら、生涯をおし流されるように生きてきた私どもが、ふとしのびよる死の影におびえて、
いたたまれないようなわびしさと、生きてきたことの空しさに打ちひしがれるとき
「罪悪深重、煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願」のましますことを告げる言葉がありがたくひびきます。
そして「わが名を称えんものをむかえん」と大悲をこめて与えたもうた本願念仏を、
生と死をこえてゆく道としてありがたく頂戴(ちょうだい)し、浄土をめざして歩みつづけてゆくのが「往生極楽の道」なのです。 
 愛憎にまみれたみにくい一生であっても、わたしにとっては、ただ一度っきりのかけがいのない人生でした。
むなしく死んでゆくわけにはまいりません。それがいま、真実のみ言葉にあい、人生が念仏の道場であったと領解するとき、
聞くべき真実を聞き、あうべきものにあいえたわが人生に悔いはないといい切らせていただけるし、
人生に豊かなみのりを感ずることもできます。むなしい死の影の彼方に、
愛憎の妄念の消滅する清らかな涅槃の浄土を期する身にならしめられるならば、死は、永遠の生命を感得する縁となってゆきます。
 まことに、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と教えられた「往生極楽の道」こそ、生と死に豊かなみのりをあらしめ、
無限の生命の世界を開いてゆく「生死(しょうじ)いづべき道」でした。だからこそ、それは「いのち」をかけて悔いのない道だったのです。

◇ただ念仏して 
 今回もひきつづいて第二条についてのお話です。前号では「本願を信じて念仏もうさば仏になる」という「往生極楽の道」こそ、無限の世界を開いていくすばらしい道であると述べていただきました。そしてこの、親鸞聖人がいのちがけで求められた「念仏ひとすじの道」は、師の法然上人が中国の善導大師の『観経疏』とのであいによって明らかにされていかれた道であったのです。

▼一筋に師の教えに随順する
 

 関東から、はるばるいのちがけの旅をつづけて親鸞聖人をたずねてきた門弟たちに応答される聖人のお言葉は、
まことに厳しいものでした。
   しかるに念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をもしりたるらんと、
   こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししかれば、
   南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゆしき学生(がくしょう)たちおはく座(おわ)せられて候ふなれば、
   かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 
   親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、
   よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり

   念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
   総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、
   さらに後悔すべからず候ふ。

 それはもはや師が弟子に語ることばではありません。
ご自身の「いのち」である念仏の信心を微塵(みじん)の飾り気もなくあらわして、
みずからの信心をあかしするといったひびきをもっています。それゆえにまたこのことばは、
いまは浄土にいます恩師法然上人に対 して述べられた弟子親鸞の領解のことばでもありました。
 「ただ念仏して弥陀にたすけまゐらすべし」とおすすめくださった恩師のみ言葉が、五十数年の歳月をへだてて、
いまもなお親鸞聖人の耳の底にひびきつづけていたのでしょう。そしてまたこのようによき人のおおせを、全身にうけとめ、
おのれを空しくしてひたすら師教に随順されている聖人のすがたは、門弟たちの心を強く打ったにちがいがありません。


▼「私」ではなく「親鸞におきては」と


 ところでどこのご法話のなかで、まず強く印象づけられるのは「親鸞におきては」という自名告(じみょうごう)です。
自名告とは、自身の名を会話のなかや、著書のなかで名のり告げることで、
私どもならばさしずめ「私は」とか「僕が」とかいうところを「親鸞におきては」とか「親鸞がもうすむね」という風に
自分の名前を名のりながら語っておられることです。
 これはその当時の人々の習慣でもあったらしく、法然聖人も法語のなかで「十悪の法然房」とか「愚痴の法然房」といわれています。日蓮上人にも同じような言葉づかいがみられます。しかし親鸞聖人ほどひんぱんに自名を名のられることはなかったようです。
 『教行証文類』のなかにもしばしば見うけられますが、たとえ仏祖のみ教えにあうことを得た感動をあらわすのに
「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな‥‥‥」と自名をあげてその慶びを語っていかれました。
あるいは自身の煩悩の深さを悲嘆されるときにも
  「まことに知んぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずむべし」
と自名をあげて慚愧されています。喜びも悲しみも、他人事としてではなく、
どこまでもわが身の上にしみじみと受けとめておられる聖人の聞法の姿勢に学ばねばなりません。
 ことに『歎異抄』には八カ所にもわたって自名告がでていますが、
いずれもその箇所には聖人独自の深い宗教的心情が吐露されております。
第五条のはじめに
「親鸞は父母の孝養のあめとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」
といわれたものとか、
第六条の
「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」
といいきられた言葉、それに後序の
    弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、
    たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

という聖人のご述懐は、私どもの心に強烈に迫ってくるものがあります。
 自身をいいあらわすために「私」という代名詞を使うときと「親鸞」という自名をもちいるのとでは、
相手にあたえる感じが全くちがってきます。「私」ということばは、誰でも使うことができますが、
「親鸞」という名で自身をあらわすことができるのは、この方以外にありません。そういう自名を名のりながら発言すると、
他との区別がきわだって意識され、その発言内容がハッとするほど強烈に印象づけられ、
また発言に強い責任が生じてくるという心理効果がでてきます。
 たしかに「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」というお言葉を聞いていると、自身の全存在をあげて、法然聖人のみ教えにしたがい、
その教説を「親鸞一人がため」とうけとめ、
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と念仏の道に身をゆだねておられる念仏者親鸞があざやかに見えてまいります。


▼ただ念仏のみを与えたもうた


「ただ念仏」ということばが、『歎異抄』には二箇所にでています。第二条と、もう一つは後序に
   煩悩具足の凡夫、家宅無常の世界は、よろずのこと、
   みまもってそらごとたはごと、まことあることなきに、
   ただ念仏のみぞまことにておはします

といわれたものとがそれです。
 ここで「ただ」といわれたのは、ただこれ一つということで唯一無二(ゆいいつむに) の意味です。
第二条は、自力の行をすてて、ただ念仏一つを、正しき 往生の行と信じて、
専修(せんじゅ)(念仏一行のみを行ずる)することであり、
後序の場合は、
 人間のあらゆるいとなみは、すべてそらごとであるが、そのような空しい私の生と死を本当に支え導き、
 充実させてくださる真実の行(おこない)は、如来よりたまわった念仏だけである

といわれたものです。
 親鸞聖人は『唯信証文意』のはじめに「唯」の字を釈して
   「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。
   また「唯」はひとりといふこころなり。

   ‥‥‥本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ
といわれています。すなわちふたつ以上のものが頭をならべてならぶことなく、
ただ一つのことがらだけが独りだちして在っているような状態を「唯(ただ)というのです。
 信心でいえば、私のはからいによって、助かるだろうか、どうあろうかと疑いまどうこと(二心=ふたごころ)なく、
如来の仰せのままに「必ず助かる」と信順(しんじゅん)している一心のことを「唯心(ゆいしん)」というわけです。
 行でいえば、種々雑多な自力の修行「雑行」を捨てて、如来が私のために選び取ってあたえたもうた
本願念仏の一行わが道といただいて、はからいなく称えていく一行専修(せんじゅ)のことを「ただ念仏」といわれているわけです。
一心をもって一行を専修する(本願を信じて念仏する)ことこそ、
法然上人から親鸞聖人へと伝えられた選択本願念仏という浄土真宗の本義であり、
親鸞聖人はそれを『教行証文類』において、大行(一行)、大信(一心)として展開していかれたのでした。


▼浄土往生のための三つの選択


 法然聖人が、その主著『選択本願念仏集』をあらわされたのは、建久九年六十六歳のときでした。
聖人の外護者であり、忠実な門弟でもあった、前関白、藤原兼実の要請に応じてあらわされたと伝えられています。
 その内容はその題名のとおり、称名念仏は、阿弥陀仏が、一切の自力の行を選び捨て、この一行を選びとり、
これによって善悪、賢愚のへだてなく万人を平等に救おうと願われた選択本願の行であって、
釈尊の本意もこれを説くことにあるということを「浄土三部経」によって証明していかれた書物で、
浄土宗独立の宣言書ともいうべき性質を持っていました。
 『選択集』は十六章からなりたっていますが、
その要旨をまとめてあらわせたのが最後におかれた「三選(せん)の文」です。
    それすみやかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法のなかに、しばらく、聖道門を闇きて、
    選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲はば、正雑二業のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげうちて、
    選んで正行に帰すべし。正定の業といふは、すなはちこれ仏名を称するなり。
    名を称すればかならず生ずることを得、仏の本願によるがゆゑに


▼第一の選択(せんじゃく)→聖道門と浄土門

 ここに三つの「選(せん)」ということばがありますから「三選(せん)の文」といいならわしてきたわけです。
第一の「選(せん)」は、聖道門を捨てて、他力浄土門に入れとすすめられたもので、第一、二門章のこころが要約されています。
聖道門とは、戒律をたもって清らかな生活をし、精神統一をおこなって、生も死も本来空であると知って、
あらゆるとらわれから解放され、この世において仏陀(完全にめざめたもの)になっていこうとする教えをいいます。
これに対して浄土門とは、この世に生きているかぎり、愛憎(あいぞう)の煩悩を燃やしながらさまざまな罪業を
つくりつづける凡夫を、死後に必ず清らかな悟りの世界である浄土へ生まれさせて、
そこで悟りを完成せしめたもう阿弥陀仏の本願力の教えをいいます。
 法然聖人は、遠く道綽禅師の教えをうけついで、末法濁乱の時代に生きる、愚かな私どもは、わが身のほどをかえりみて、
自力聖道の道をさしおいて、他力浄土の道を選びとらねばならないとすすめられたのです。


▼第二第三の選択(せんじゃく)→雑行と正行,助業と正定業


 次に第二の「選(せん)」と第三の「選(せん)」は、第二、二行章のこころを要約されたもので、
善導大師の教えにしたがって、浄土門の行を選び定められたものです。
浄土に往生するための行を経典にはさまざまに説かれていますが、それを分類すると雑行と正行、
助行と正定業に分けられると善導大師はいわれました。
雑行(ぞうぎょう)とは、もともと聖道門の修行徳目として説かれた種々雑多な行のことですから雑行とも諸行ともいわれます。
それに対して、正行(しょうぎょう)とは、正当な往生行ということで、阿弥陀仏とその浄土を対象としてなされる行のことです。
すなわち阿弥陀仏について説かれた「浄土三部経」を読誦(どくじゅ)したりとその浄土を心に観想したり、
その名号を称えたり、その仏徳を讃歎(さんだん)し、供養することで、
この読誦(どくじゅ)・観察・礼拝(らいはい)・称名・讃嘆供養(さんだんくよう)の五種の行五正行といいます。
 ところでこの五正行のなかで、阿弥陀仏がこれをもって万人平等に救おうと選び定められた行は、称名だけであるというので、
称名を正定業とすべきであるといわれました。正定業とは、それによって正(まさ)しく往生が
決定(けつじょう)する行業(おこない)ということです。 その他の四行は、称名するところに、
自然につきしたがっていく行ですので称名の助業であるといわれました。助業の助とは、つきしたがうということです。
こうして経典には、さまざまな行が説かれていますが、浄土への道として信受すべきものは、
正定業(しょうじょうぎょう)である称名念仏の一行であると決定していかれたのが善導大師(ぜんどうだいし)でした。


▼万人平等の救いにあう


 真実の道を求めて、苦しみぬかれた法然聖人が、四十三歳のとき、比叡山の黒谷別所の経蔵のなかでさぐりあてられた救いのことばこそ、善導大師の、この称名正定業の釈文だったといわれています。それは、
   一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念念に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏願にじゅんずるがゆゑに
という短い文章でしたが、このことばがやがて法然、親鸞両聖人を導き育てていったのです。
 ただ口に南無阿弥陀仏と称える念仏が、どんなに罪深く愚かなものを救うて、涅槃の浄土にいたらしめるのは、称えた私のはたらきではなく、阿弥陀仏が、万人の救いの道として本願に選び定められたからであるというので、「三選の文」は「み名を称すれば、かならず生ずることをう、仏の本願によるがゆゑに」と結ばれています。その仏の本願を詳しく解説されたのが『選択集』の第三,本願章であって、そこには念仏一行を選びとられた選択本願の仏意が明らかにされています。
その仏のみこころは「平等の慈悲」であるといい、
    弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、
    造蔵起塔等の諸行をもって、往生の本願としたまはず。ただ称名念仏の一行をもってその本願としたまへり

とのべられました。


▼もっとも称えやすくすぐれた徳をもつ称名念仏



 念仏を他のもろもろの行と対照してみると、念仏は易行(いぎょう)であって、しかも最勝の徳をもっており、
諸行は難行であってしかも劣行(れつぎょう)であるから、仏は難劣(なんれつ)の行を選び捨てて、
勝易具足(しょういぐそく)の念仏を万人の道として選び取られた法然上人はいわれるのです。
念仏が最勝の行であるというのは、南無阿弥陀仏という名号には、阿弥陀仏が成就されている自利と利他、
智慧と慈悲の無量の徳が、まどかに具わっていて、いただいて称えるものの身に宿ってくださるからで、
『大経』には、一声一声が大利無上の功徳であると説かれています。
それに対して諸行は、その一行一行をつみかさねて自利利他の徳を完成しようとするものだから有限な小利有上の功徳にあって、
念仏にくらべれば劣行であるといわれるのです。
 また諸行は難行ですから、よほどすぐれた素質をもった修行者でなけ れば実践できません。
もしこのような難行を往生の行として選び定めたならば、少数のエリートは救われましょうが、
大多数の庶民大衆は往生の望みを絶たねばなりません。しかし、一番救いを必要としているのは、戒律も保てず、
智慧もなく世俗の生活のなかで愛憎(あいぞう)の煩悩にふりまわされて苦しみ悩んでいる庶民大衆なのです。
 そこで平等の大悲にもよおされて、万人を善悪、賢愚(けんぐ)の隔てなく救おうと願い立たれた阿弥陀仏は、
罪業にまみれたものも、手のつけようのないほど愚かなものも、臨終がさし迫って、心もそぞろになっているものであっても、
行ずることができるようにと易行の念仏一行を往生の行と選び取られたのです。
それゆえ易行とはただ行じ易いというだけではなく、仏の平等の大悲の具現(ぐげん)という意味をもっていることが大切なことです。
 こうして、いずれの行も及びがたき愚悪のものを助けとげるために、難劣なる諸行を選び捨てて、
称名念仏という至易の行に最勝の徳をこめて選びとられたのが大悲選択の本願であるから、
本願を信じて念仏を申せとすすめられたのが『選択集』でした。してみれば 「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という法語は、法然聖人によってみとどけられ、親鸞聖人へと伝承された真宗念仏の真髄をしめされていたといえましょう。

◇念仏の伝統 
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」―この法語には、法然上人によって見とどけられ、親鸞聖人へと伝承された真宗念仏の真髄が端的に示されています。しかし、関東の門弟たちは、「ただ念仏」の道にわが身を託しきることが出来ないために、親鸞聖人に念仏による救いの証言を期待します。今号では、門弟たちの期待にひそむ危険性を鋭くえぐり出すように展開される、聖人の念仏の信心について前号に引き続き述べていただきます。

▼人間に救いの確かさを求めることの危険性


 『歎異抄』には、切れ味のいい逆説的な表現がしばしばつかわれています。第二条でいえば、
    親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、
   よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。
と念仏の信を表明されたあと、一転して、

   
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
   総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、
   
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
といわれていますが、これが親鸞聖人の念仏の信を表すぎりぎりの言葉だったのでしょう。こういう逆説でしか表せないところに、念仏の世界の超常性があるのだというべきかもしれません。
 「念仏はまことに浄土に生まれるタネである」というのが、『大無量寿経』にはじまり、法然上人にいたるまでの、二千余年にわたる仏祖の経説でした。そして、この仏祖の説かれたみ言葉こそ、一点の虚偽(きょぎ)もまじわらない真実であると、信じきっておられるのが親鸞聖人でした。虚偽の人間の側にある、ただ虚妄(こもう)なき仏語に信順して、わが身の往生を一定と思い定めよ、とつねづね聖人
も仰せられていました。
 それゆえ、異端邪説に惑わされて、歩むべき道を見失った関東の門弟たちは、「念仏すれば必ず浄土に生まれることができる、決して地獄におちることはない」という、確信にあふれた聖人の証言を期待してたずねてきたにちがいありません。しかし、その期待にひそむ危険性をだれよりも聖人はよく知っておられたのでした。人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたもう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人の論難(ろんなん)によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちちに、自己を救済者の側におく傲慢(ごうまん)の罪を犯すことになりましょう。


▼愚にかえる


 法然聖人は、つねに「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と仰せられていたと、親鸞聖人は記されています。ここでいわれる愚者とは、教法の是非を見極める能力もなく、善悪のけじめを知りとおす判断力ももたず、まして、生死をこえる道の真偽をみきわめるような智力などかけらほどもない、どうしようもないものということです。親鸞聖人はつねに「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」とか、
   是非しらず邪正もわかぬ 
   このみなり
   小慈小悲もなけれども
   名利に人師をこのむなり
  『正像末和讃』
といい、自身を「愚禿」と名のっていかれたのでした。
 「法然上人の教えにしたがって専修念仏(せんじゅうねんぶつ)を信じるものは、地獄におちるといいおどす人がいますが、ほんとうに念仏すれば極楽へ往生できるのでしょうか」と問いかけられたとき、聖人は「念仏が、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であるのか、それとも地獄におちる業(ごう)(因)であるのか、私はまったく知りません。それを確かめる能力も知力も本来備えていない愚かな親鸞のために、如来は本願をたて、我にまかせて念仏せよと、仰せられているとうけたまわり、その慈愛(じあい)あふれる仰せに身をゆだねて念仏しているばかりです」といわずにおれなかったのです。


▼こざかしい凡夫のはからいを離れて


 他力の信とは、ひとえに如来の本願の不思議に身をゆだねて、凡夫のはからいを少しもまじえないものであると、聖人はつねにいわれました。『御消息』に、
     如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。
     補処(ふしょ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)をはじめとして、仏智(ぶっち)の不思議をはからふべき人は候はず
    
 人間は、この世をどう上手に生きるか、ということに関してはずいぶん賢いのですが、
生きることの根元的な意味とか、死の何たるかについては、まったく無知な存在なのです。

何ごとも知らされずに生まれてきて、わからないままに、押し流されるように生き続け、ふと気がついたときには、
もう自分に与えられた持ち時間が切れていた、いったい自分は何のためにあくせく苦労してきたのかと、
むなしい思いを抱きながら死を迎えるのかと思うと身震(みぶる)いするような思いがします。

 生にもまして死は不可解です。生と死を二元的に分けて、対立的にしか考えることのできない人間の知識は、
生の真相を知り得ないように、自分の死について知る能力も持っていません。
ただ確実におそってくる死の予感におびえているのが人間のなまのすがたなのです。
 こうした人間の知識の限界を突破して、生死をこえて生死を一望のもとに見通すことのできる
無分別智(むふんべつち)(=般若(はんにゃ)・プラジュニャー)を獲得すれば、生もすばらしいし、死もすばらしいと、
生と死を平等に見通すことができるような境地に到達します。それを「さとり」といいます。
 そのようなさとりを開かれたが、仏陀が、生死に迷う私どもに、生きることの意味と、
方向を知らしめるために説かれたのが『無量寿経』であり『観無量寿経』『阿弥陀経』だったのです。
生と死についての、人間の愚かさを知るならば、人間の知識や能力によらず、私のはからいをすてて、
仏陀(ぶつだ)のみ言葉を素直に受け入れることこそ、私どもの正しい態度であるといわねばなりません。


▼地獄を拒(こば)むことができるほど立派な人間ではない


 親鸞聖人はさらに言葉をついで、
     たとひ法然上人にすかされまゐらせて、
     念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
     そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、
     すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。
     いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

といわれます。
  「法然上人の教えをまにうけて、念仏しているようなものは、きっと地獄におちる、
 といいおどす人がいるとのことですが、かりに法然上人にあざむかれて、念仏したがために地獄におちたとしても、
 しかし私は決して後悔はいたしません。それというのも、ほかの修行をはげんだならば仏になれたはずの身が、
 念仏を申したばかりに地獄におちたとでもいうのならば、あざむかれて残念だという後悔もありましょうが、
 どんな修行も完成することのできない私のような愚悪の身には、しょせん地獄は定まれる住家であるといわねばなりますまい。
 私は地獄を拒絶できるほど立派な人間ではないのです」
と、ズバリ言い切られたこのお言葉には、いいようのないすごみさえ感じられます。


▼念仏は脈々と人類の歴史のなかを流れてきた


自らの生と死のゆくえを見定めることのできない愚鈍(ぐどん)の身にとって、何よりありがたいのは「よき人」にあえたということでした。
『高僧和讃』のなかの「源空讃」には、
    曠劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも
    出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
    本師源空いまさずは 
    このたびむなしくすぎなまし

と、良き師にあえた慶(よろこ)びを高らかにうたいあげられました。
しかし、その背後には、さらに多くの浄土の祖師方の伝統があるとみとどけられたのが親鸞聖人でした。
阿弥陀仏の本願の法流は、釈尊によって『大無量寿経』の説法として、この煩悩の大地にあらわれて以来、
脈々として人類の歴史のなかを流れてきました。ときには歴史の表面からすがたを消すこともありましたが、
それはまるで伏流水が地底を流れつづけ、やがて機縁にふれるとふたたび地上にあらわれて、
人々の渇きをいやすように、インドから中国にわらり、朝鮮半島へ、日本へと流伝し、
二千五百年の歴史を貫いて悩める人々のこころを、いやしつづけてきたのです。


▼七人の高僧


 親鸞聖人は、浄土真宗の教えを正しく伝えられた祖師として七人の高僧を選定されました。
インドに出られた龍樹(りゅうじゅ)菩薩と天親(てんじん)菩薩(=世親)、
中国にあらわれた曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導大師、
わが国の源信僧都と法然房源空聖人で、これを七高僧とか、七祖とよんでいます。
 「正信偈」には、この方々の徳をたたえて、、
   「印度西天の論家、中夏(ちゅうか)(中国)日域(じちいき)(日本)の高僧、大聖(釈尊)興 世の正意を顕し、
   如来の本誓、機に応ぜることを明かす」

といわれています。
七人の高僧たちは、釈尊が、この世に出現された本意は、ただ本願念仏のいわれを説くため、
であったということをあらわした方たちであり、本願の念仏こそ、愚悪の凡夫の身にぴったりと合った唯一の救いの道であることを、
私どもに知らせたもうた方々であるといわれるのです。


▼念仏の源流と伝統


 ところで、親鸞聖人が真宗の伝統を語られるとき、「正信偈」や『高僧和讃』のように、七高僧を列挙されるとき、法然聖人のみを挙げられるときと、善導・法然の二師を挙げられる場合とがありますが、いまここには釈迦・弥陀の二尊と、善導・法然の二師を挙げて、念仏の源流と、その伝統を示されています。
  
釈迦・弥陀の二尊と、善導・法然の二師を挙(あ)げて、念仏の源流と、その伝統を示されています。
   弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、
   善導の御釈虚(おんしゃくきょ)言(ごん)したまふべからず。
   善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、
   またもつてむなしかるべからず候ふか。
   詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。このうへは、
   念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり

と結ばれたものがそれです。
 はじめに、「弥陀の本願」と「釈尊の説教」とを挙げられたのは、阿弥陀仏の本願の救いは、釈尊の説法によってのみ、私どもに伝達されるということを知らせると同時に、その釈尊の教説も、阿弥陀仏の本願海を源流として、そこから流れ出てきたものであることを明らかにされたものです。
 『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏は、十方の世界にましますあらゆる仏陀たちに、南無阿弥陀仏というみ名にこめた万人平等の救いのいわれを説かしめて、十方の衆生に本願の救いを知らしめようと誓い、あらゆる仏陀たちは、その誓いに応じて、阿弥陀仏の不可思議の徳をほめたたえておられると説かれています。この経も、そのような本願にうながされて、説かしめられているものであると、経典自身が語っているようです。
 次に、「善導の御釈」と「法然の仰せ」という二師の相承を挙げられたのは、法然聖人が、自身の念仏の信のよりどころを語られるとき、つねに「ひとへに善導一師による」といわれていたものをうけられたものです。
 すなわち、善導大師が、称名一行が正定業(正しく往生の定まる行)であると仰せられた釋義をうけて、法然聖人は、「浄土三部経」は、選択本願の念仏のいわれを説かれた経典であると受けとっていかれたわけです。そこで善導・法然の二祖を挙げることによって、「ただ念仏して弥陀にたすけられる」という教えの伝統を明らかにされたわけです。
 こうして阿弥陀仏の本願海から流れ出て、釈尊の教説となって煩悩業苦(ぼんのうごうく)の大地をうるおし、善導の御釈となって中国の民衆を救っていった本願念仏の法流は、さらに法然によって確認され、いま親鸞もその清らかな流れを汲(く)んでいるという事実を述べておられるのです。


▼一人ひとりが決断する以外に道はない


 しかし、このことをいうのに「まことにおはしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に奇異な感じをうけます。
そこには、反語的に意味を強めるようなひびきもかんじられますが、何よりも「親鸞が申すむね、
またもつてむなしかるべからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
 ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆゑに、親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、
面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、
門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「弟子一人ももたず候ふ」
といいつづけられた聖人とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は「法」の名によって「私」を主張することを厳しく戒められています。自分がいただいている教法が貴(とうと)いということは、
自分が貴(とうと)いことでは決してありません。むしろ、教法の貴(とうと)さがわかればわかるほど、
自分の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名を借りて、
自己を権威づけようとすることほど醜いものはありません。
 こうして聖人は、「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからひなり」とお言葉を結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、
門弟たちの一人ひとりに、取捨をまかせていかれるのです。そこには、一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか、
したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の世界の厳しさを知らしめられていたといえましょう。

                                                         梯 実円 先生

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