◇はからいの戒め
 「念仏は無義をもって義とす」これは、浄土真宗の法義を総括する法語です。凡夫のはからいをはなれ、如来の本願のはからいに身をぬだねて念仏してゆくようにと、親鸞聖人は私たちにお示しくださるのです。唯円房は、この法語で『歎異抄』の前半九箇条を締めくくり、後半の異義批判を行おうとされました。この法語を真摯(しんし)にうけとり、聖人至寂(しじゃく)後生じたさまざまな異義を嘆かれ『歎異抄』を著された唯円房(ゆいえんぼう)のおこころをうかがい、その意味を考えていきましょう。

【註釈版本文】
念仏は無義をもつて義とす。不可称不可説不思議のゆゑにと仰せ候ひき。
 そもそもかの御在生(ございしょう)のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠(りょうえん)の落陽にはげまし、
信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣(ごいしゅ)をうけたまはりしかども、
そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、
上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来(きんらい)はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。
いはれなき条々の子細のこと。

【意 訳】
 本願の念仏を申すには、自力のはからいをさしはさまないということを本義とする。
如来が万人の行として選び定めたまうた本願他力の念仏を、仏以外のだれであっても量ることはできないし、
説き尽くすこともできないし、思いはからうこともできないからであると仰せられました。
思えばもう昔のことになりますが、親鸞聖人の御在世のころ、ともに往生極楽の道をお聞かせにあずかろうと、
同じ志をもって、関東からはるかにへだたった遠い京洛の地へ歩みをはこんで聖人におめにかかり、
一筋に本願を信じ、この生涯の終わるときには、阿弥陀仏のいます真実浄土へ生まれさせていただこうと、
往生を期しつつ生きた人びとは、同じ時に同じ本願のいわれをうけたまわり、聖人の御本意を聞き伝えたことでした。
 しかし、この人々の教化を受けて念仏を申されるようになった数え切れないほどのたくさんの老若のなかには、
親鸞聖人の仰せでない異義を主張するものが近ごろは多くおられると聞いております。
それらが正しい根拠をもたない憶説であるということを、一つひとつ述べていきましょう。

▼義なきを義とす
 「義をもって義とす」という言葉は、もともと法然聖人の法語であったと親鸞聖人はいわれています。
『親鸞聖人御消息』第六通に、
    如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。
    義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。
    他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり

といわれたのをはじめ、親鸞聖人の晩年の御著述や手紙のなかに、法然上人の仰せとして、ひんぱんに用いられています。
 それも多くは「他力には義なきを義とす」とか「他力には義なきをもって義とす」とか
「他力不思議にいりぬれば、義なきを義とすを信知せり」というように、
人間の思慮分別(しりょぶんべつ)を超えた本願他力に対して、私の思慮分別(しりょぶんべつ)、
すなわちはからいをいささかもまじえてはならないと、他力の受け取りかたを知らせる法語でした。
 したがって『歎異抄』で「念仏には無義をもって義とす」といわれているのも、他力の念仏のいただきかた、
もっといえば本願念仏の他力性についての領解について述べられたものであるというべきでしょう。
「お願いだから、わが名を称えよ、必ず浄土に生まれしめる」と誓われた本願の行であって、
私のはからいによって称える自力の行ではありません。
ただひとすじに本願他力の御(おん)はからいにうながされて称えているという念仏の他力性を領解させるために
「無義をもつて義とす」といわれたわけです。

▼法然聖人の法語

 ところで親鸞聖人は「他力には義なきを義とす」とは、法然上人の法語であっらといわれていますが、
『選択集』をはじめ、現存している法然上人の御著述や御法語、お手紙のなかには見当たりません。
わずかに真為未詳の文献である。「護念経の奥に記せる御詞」として「浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、
様なきを様とす。浅きは深きなり」とあるぐらいです。
ただし法然門下の上足の一人であった正信房湛空が「念仏宗は、
義なきを義とする也」といっていたと『一言芳談』にでていますから、法然聖人のおおせであることの傍証にはなりましょう。
 もっとも「和語灯録」第五巻には、「念仏往生の義を、ふかくもかたくも申さん人はつやつや本願の義をしらざる人と心うべし」
という法然聖人の法語が記録されています。念仏往生の教義を、いかにも深遠そうにあげつらい、
むつかしくいう人は、本願のただしいいわれを全く知らない人だというのですから「義なきを義とす」
と同じ発想であったといえましょう。『一言放談』にも「念仏の義を深く云事は、
還而浅事也(かえってあさきことなり)」という法然聖人の法語がでています。
本願他力の法義は、どんな愚かなものにも、またたとえ臨終のせまった重病人にもすぐにわかるように成就されているのだから、
難解な教義をあげつらう知解を主とした聖道仏教とは全くちがうということを、「義なきことを義とす」といわれたのでした。

▼義と「はからい」について

 さて「義なき義とす」の「義なき」とは行者の自力のはからいのないことであると親鸞聖人は釈されていますが、
どうして「義」が自力のはからいの事になるのでしょうか。
 もともと「義」とは、「宜(ぎ)」・「誼(ぎ)」と同じく、物事の正しい筋道、道理のことでした。
多屋頼俊氏の『歎異抄新註』によると、『礼記疏』に「義とは裁断して宣しきにかなう」といわれているように、
善を善とし、悪を悪と判断し批判することを義といったから、「はからう」の意味をもっていたといわれています。
そして次の「義とす」といわれた「義」とは、本義ということで、他力のもつ本来の道理のこととされています。
 梅原真隆氏の『正信偈歎異抄講義』には、「義なし」の義は「凡夫のはからい」であり、
「義とす」の義は「如来の御はからい」のこととみて「われらの義(はからい)をはなれたところが、
そのまま、如来の御義(はからい)におまかせした心境である」といわれています。
しかし法然上人せよ、親鸞聖人にせよ、「義」を如来の御はからいをあらわす言葉として用いられた例は一つもありませんし、
「義とす」を「如来の御はからい」とすると、この文章は「他力(念仏)には、行者のはからいのないことをもって、
如来の御はからいとす」という奇妙な句になってしまいます。
 その他この法語については、いろいろな解釈がありますが、私は多屋氏の説のように「他力念仏には、
行者のはからいをまじえないことをもって本義とする
」といわれたものと受けとっています。

▼不可思議の徳

 「不可称、不可説、不可思議のゆゑに」というのは、自力のはからいをまじえてはならないことの理由を述べられたものです。
不可称の称とは「はかる」ことで、如来の徳は、はかり知ることができないからです。
不可説とは、相対的な表現しかできない言葉をもって、絶対的な如来の徳を説きつくすことはできないからです。
不可思議とは、生死(しょうじ)・自他・善悪・賢愚(けんぐ)というふうに、
ものごとを分け隔てしてしか確認できない人間の知識をもって、生死一如、自他一如というさとりの境地からなされる善悪、
賢愚をへだてない本願他力の平等の救いを思いはからうことは決してできないといわれたものです。
 すでにのべたように『歎異抄』第一条には「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、
往生をばとぐるなり」といわれていますが、その誓願がわたしどもの思慮分別のおよばない広大無辺な領域であることを、
すぐ次に「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし」という言葉であらわされていました。
如来に随順する善人も、如来に反逆する悪人も、少しのわけへだてもなく、
そのままで包摂するとおおせられる大悲の心の深さ、広さは、わたしどもの思いのおよぶ領域ではありません。
こうした絶対無限の大悲のみことばに対して、私どもは、思いはからうすべもなく、言葉をさしはさむ余地もありません。
ただ仰せを不思議と仰ぎ、おおせにしたがっておまかせするばかりです。
それを 「ただ信心を要とするべし」といわれたのでした。『親鸞聖人御消息』第二十通にも、
    如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからいにあらず。
    補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。
    しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき

といわれています。善悪をへだてなく、万人を平等に救いたまう如来の誓願の不思議は、
凡夫はもとより、弥勒菩薩(みろくぼさつ)のような最高位の菩薩であっても、うかがい知ることはできません。
それはただ仏と仏とのみの知るさとりの領域であって、私どもは、ただ如来の不思議の御はからいにまかせて、
念仏するばかりです。そのことを法然聖人は「義なきを義とす」と仰せられたというのです。

▼異議の出現

 他力の念仏は、私のはからいを微塵(みじん)もまじえてはならない「義なきを義とす」る法義であると明かされた第十条は、
第一条から第九条に至るまでにのべた浄土真宗の法義を総括すると同時に、
後半の異義批判に根拠となるような意味をもっていました。
 凡夫のはからいをはなれて、如来の本願のおはからいに身をゆだねて念仏していくという法然、親鸞両聖人の教えは、
「義なきを義とす」という一言に尽きます。にもかかわらず、すでに両聖人の御在世中から、一念・多念の争いをはじめ、
さまざまな異議があらわれて、本願の教法に「はからい」を加え、
自己の見解によって他力の宗旨(しゅうし)を乱すものが続出していました。
 親鸞聖人の御在世が、すでに「むかし」となってしまって、その直弟の多くも往生をとげ、
孫弟子、ひ孫弟子の時代になってくると、法義の乱れはいっそうひどくなってきました。
 『歎異抄』の後序にはそのありさまを、
    念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、
    相論をたたんがために、まったく仰せになきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく嘆き存じ候ふなり

といわれています。各地で念仏の教えを勧めている道場主のなかには、信心のいわれを人々に説き聞かせているとき、
質問や、論難にまともに応答できなくなって、「とにかく親鸞聖人がこうおっしゃたのだから」といって、
聖人がいわれてもいないことを、聖人のお言葉だといって人々に押しつけ、
聖人の権威をかりて自説を正当化しようとするものが少なからずいました。こうした人びとによって真宗がゆがめられ、
自他共に正しい救いの道を見失っていくありさまが、聖人の直弟として、唯円房には堪えられない悲しみでした。
     かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直(じき)に報土に生れずして、辺地(へんじ)に宿をとらんこと。
     一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。
     なずけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず

と、この書を結んでいった唯円房の悲嘆が、私の胸にも、そくそくと迫ってきます。

▼異議をなげく

 さて、『歎異抄』の後半の八箇条は、こうした「聖人の仰せにあらざる異議ども」をとりあげ、
聖人の仰せをよりどころとしながら批判し、歎異していかれます。
 第十一条は、誓願不思議と名号不思議とを区別して、誓願不思議を信ずるものは真実報土の往生を遂げるが、
名号不思議を信じて称名し往生しようとするものは、自力であって、
化土の往生しかできないと主張した誓名別執(せいみょうべっしゅう)(別信)の異義を批判されたものです。
これはすでに親鸞聖人の御在世中からあり、
聖人も誓願によって成就された名号であるのに両者を別もののように考えることは誤りであると、厳しく誡められていました。
 第十二条は、聖教(しょうぎょう)を詳細に学ばなければ往生できないと主張する学解往生の異義を批判されたものです。
真宗の聖教とは、「本願を信じ念仏を申さば仏になる」と教えるものであって、学問を旨とせよと教えるものではないからです。
 第十三条は、本願を信じていても、わが身の悪をおそれないものは、
「本願ぼこり」であって往生できないと主張する専修(せんじゅ)賢善の異義を批判し、
わが身の善悪を超えて救いたまう本願の御はからいにまかせようとすすめられていますが、
ここに示された宿業(しゅくごう)についての問答は有名です。
 第十四条は、念仏滅罪(めつざい)の異義を批判するものです。
念仏にて罪障を滅して往生しようとすることは本願にそむく自力念仏である。
本願を信ずる一念に往生は決定(けつじょう)し、
そのうえの称名は仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のいとなみと受けとるべきだというのです。
 第十五条は、即身成仏(そくしんじょうぶつ)の異義をあげて批判されています。本願を信じ、
摂取不捨の利益にあずかって、往生を一定と期する身にならしめられたといっても、
この世にある限り煩悩具足の凡夫であることに変わりありません。わが身のほどを忘れ、
この身のままで仏陀になっているということは、身のほどをわきまえない妄言(もうげん)というべきでしょう。
浄土真宗は「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」教えであると明確に規定されています。
 第十六条は、自然回心(じねんえしん)の異義を批判するものです。
信心の行者は、自然にふとしたことで悪を犯したような場合には、必ず回心し、
悪心を悔い改めなければならないという主張を批判して、本願他力を信ずるものにとって、
回心とは、自力を捨てて他力に帰するという決定的な生涯一度のできごとをいうのであって、
悪を犯すたびに回向しなければ往生できないというものではない。むしろそれは悪を断ち切って善を修行し、
悟りを開こうとする自力聖道門の人の考え方であるというのです。
 第十七条は、辺地堕獄(へんじだごく)の異義を批判するものです。
本願を疑いながら自力の行をはげんで往生を願う疑心の善人は、極楽の辺地に往生せしめられる。
そこでお育てを受けて本願を信ずる身となり、真実報土に転入せしめられるもであって、辺地に往生したものは、
最後には地獄におちるというようなことはどこにも説かれていない邪説であるということです。
 第十八条は、施量別報(せりょうべっぽう)の異義が批判されています。
寺や道場への寄付の多少にとって、浄土へ生まれてのち大仏になったり小仏になったりするといって、
信者から金品をまきあげようとすることは、仏法を利用して欲心を満足しようとする言語道断の異義であるといわれるのです。
 さて、この異議批判八箇条を、前の師訓十箇条と対照してみますと、
第一条と第十条、第二条と第十二条、第三条と第十三条には対応関係が見られますが、
他は必ずしも対照的にはなっていません。しかし前半の法語が、異議批判の根拠となっていたことは明らかです。

                                                          梯 実円 先生
                                                                    ホーム