教行信証 正信念仏偈
弘経大士宗師等
拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説
【書き下し文】
弘教の大士・宗師等、
無辺の極悪を拯済したまふ。
道俗時衆ともに同心に、
ただこの高僧の説を信ずべしと。
【意 訳】
真宗の教えをひろめてくださった祖師たちは、
すべての罪深い人々をお救いくださる。
出家も在家も今の世にある人々は共に、
ただよくこの高僧たちの説かれたところを信じなさい。
「正信念仏偈」は、私たち念仏者にとってもっとも身近なお聖経です。そのおこころをお聞かせていただいて、いよいよ最終回になりました。偈文を結ぶにあたり聖人は、私たちに、七人の高僧方が伝えひろめられた真実の法を信じるようにと勧められました。聖人みずから信順する本願念仏の教えを私たちにもお勧めくださるのです。「正信念仏偈」の要(かなめ)は、この「自信教人信」であるといわれます。講座を終えるにあたり、もう一度、偈文をふりかえりながら、「自信教信」のこころについて講じていただきます。
▼本願を信じてくれよ
インド・中国・日本の三国にわたる七人の高僧たちのお説きくださった要旨を賛嘆しおわったので、これら高僧の説かれた教えを信じなさいと、私たちに信を勧めてくださるのが、最後の四句であります。
「弘教(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師等」というのは、経典(浄土三部経『大無量寿経』)の趣旨(しゅし)を説いて、これをひろめてくださった菩薩・人師(にんし)ということで、上来述べてきた七高僧を指しています。
「無辺の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまふ」とは、きわほとりなき極めて濁悪(じょくあく)の者をお救いくださるということです。
先般、テレビを見ていたら、百八の煩悩ということが話題になっていました。
「百八も煩悩があるはずがない。まあ多くて半分の五十四ぐらいかな」
「いや私は煩い悩むことなど一つもない」
「でもあなたはよく怒るが、それは瞋恚(しんに)という煩悩ですよ」
「いや私が怒るのは楽しみながらだから、煩悩ではない」
こういった会話がされていました。もちろん、これは娯楽番組ですからおもしろおかしく話しているのでしょうが、仏法を聞いたことのない現代人は、自分には煩悩の濁りや罪悪などはないと考えている人も少なくないと思われます。
親鸞聖人は、「煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれら」とか「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」等といわれました。あるカレンダーに「煩悩を無くすることはできないが、煩悩をかかえた身であることを知ることはできる」という意味のことが書いてありました。仏の真実の知惠と慈悲をお聞かせいただくことによって、私が極めて濁悪の身であると知らされます。
その濁悪の私たちをお救いくださるのは阿弥陀仏でありますが、その救いをお説きくださったのは釈迦仏であり、その釈迦仏の教えをお伝えくださったのは七人の高僧たちですから、親鸞聖人は、「ただこの高僧の説を信ずべし」と、信を勧められるのです。そしてこのお勧めは親鸞聖人ご自身の私たちに対するお勧めでもあります。『御伝鈔』に、
唯有浄土(ゆいうじょうど)の真説(しんせつ)について、かたじけなくかの三国の祖師、
おのおのこの一宗を興行(こうぎょう)す。このゆゑに愚禿(ぐとく)すすむる
ところさらに私なし 「御伝鈔」
と述べられています。このご文の意味は、「ただ往生浄土のおみのりだけが私たちの救われる道である」という釈迦仏の教えについて、インド・中国・日本の三国に出られた七高僧がそれぞれ、この往生浄土の一宗を起こして広めてくださっています、だから、この親鸞が勧めていることは決して自分勝手なことを勧めているのではない、といわれるのであります。
ですから、「ただこの高僧の説を信ずべし」といわれることが、そのまま親鸞聖人が私たちに「本願を信じてくれよ」とお勧めくださることであります。
灘本愛慈 先生