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広げよう お念仏の声満ちる社会へ

報徳寺では随時各種法事を下記の通り受け賜っております。初めての方でもお寺の本堂(冷暖房完備。全席椅子席を用意)をご利用になれます。

●葬 儀
 
臨終勤行(枕経)〜通夜式・葬儀式・中陰法要
●年回法要(年忌法要)
 
一周忌、三回忌などの年忌法要 
●年間の仏事
 月忌参り 春季彼岸参り お盆参り 秋季彼岸参り 在家報恩講
●その他の仏事
 入佛法要 遷仏法要 建碑式
 その他

※その他わからないこと、お聞きしたいことがあればお気軽にお尋ねください。
  
                                 



「告別式(お別れ会)」、「お葬式」、鎮魂式の違い
浄土真宗における「お葬式」の意味について窺うにあたり、まず、「お別れ会」といわれるものと「お葬式(そうしき)」の違いについて考えてみましょう。「お別れ会」といわれるものは、「告別式」ともいわれますが、案外、「告別式(お別れ会)」と「お葬式」とを同じであるとみなして混同されているケースが多いようです。
 一般的に「告別式(こくべつしき)」といわれるものは、文字通り、「別れを告げる式」ですから、「故人に対して、後に遺さ(のこさ)れた有縁(うえん)の人々が、生前を偲び、厚情(こうじよう)に感謝して、今生の別れを告げる」という意味です。そうしますと、「告別式」は、「故人に対して、後に遺さ(のこさ)れた人々が行うもの」という意味になりますので、そこには、「阿弥陀仏(あみだぶつ)に相対して行う儀礼(ぎれい)」という宗教的な意味はありません。したがって、このような意味において行われる「告別式」には、お仏壇はもちろん、僧侶の姿もあるはずはなく、読経(どきよう)の声も響いてきません。
 次に、「お葬式」の意味について考えてみましょう。「お葬式」は、「葬儀(葬送(そうそう)儀礼(ぎれい))」ともいわれますように、宗教的な「儀礼(ぎれい)」をともなうものです。そうしますと、この「儀礼(ぎれい)」とは、私たち浄土真宗の教えを聞くものにとって、「阿弥陀仏(あみだぶつ)に相対して、執り行うもの」という意味になります。したがって、「お葬式」とは、「故人に対して、別れを告げる」ということに終始するものではなく、「故人も、後に遺さ(のこさ)れたもの、阿弥陀仏(あみだぶつ)のお救いの内にあるという思いの中で行う儀礼(ぎれい)」という意味なのです。
 このように、「(故人に対して行う)告別式(お別れ会)」には、宗教的な「儀礼(ぎれい)」という意味はまったくありませんから、「阿弥陀仏(あみだぶつ)に相対して行う儀礼(ぎれい)」という意味をもつ「お葬式(葬儀)と混同することは、大きな誤りであるといえるでしょう。
 もう一つが、鎮魂式です。この鎮魂式はお葬式と混同されていますが、実は別物で「お葬式」ではありません。
なぜならこの鎮魂式は死者のためにするものです。死者の魂がこの世に迷っていて成仏できず、あの世に行けないとかわいそう。または我々にわざわいをもたらしたり、死者が化けて出てきたら困るので鎮魂式を行う遺族が死者のためにする儀式が鎮魂式です。だから「葬儀式」と「鎮魂式」はまったく違う別物です。
 仏教の教えにおいて死者はみんなお浄土(仏の国)に生まれるはずです。迷った霊魂、成仏できない霊魂というものはありません。本当の仏教を聞いて鎮魂式などしないでしんみりした本当の「お葬式」をしたいものです。



 それぞれの宗派によって、お仏壇の荘厳(お飾りの方法)や、作法には定めがあります。
 浄土真宗本願寺派の荘厳・作法の基本を示し、日常のお給仕や活動の糧にできそうな事例をご提案します。今後の参考にしていただければと思います。なお、内容に関しては「朋友」浄土真宗入門のてびきを中心に『浄土真宗本願寺派法式規範』、『浄土真宗本願寺派葬式規範勤式集』、『浄土真宗必携 み教えと歩む』等から参考資料を示しています。

 作法はお法(みの)りに遇わせていただけたよろこび、阿弥陀如来様へのお敬いの心を形に表したものです。荘厳はお浄土の様子や、み教えを形にあらわしてくださったもので、仏事は、私がお法(みの)りに出遇わさせていただく場です。ですから、基本を大切にして正確に、お敬いの心をもってすることが大切です。
 いくら、形式は間違っていなくても、そこに喜びの心が見られないのは寂しいことです。お法(みの)りに遇わせていただいたよろこび、報恩の思いから、その心を形に表されたものであることを、くれぐれも忘れずに大切にしていきたいものです。



 この言葉を、どのような場面で聞かれるでありましょう。たいていの場合は浄土真宗の門徒として、当然心得ておかなければならないことを、知らなかった時の、言い訳にしておられる時のようです。
 ある法要で、中年男性がお焼香をしました。それを見ていた日曜学校に通っている二年生の子が、「あのおじさん、お焼香の作法を間違えているよ」と。その声が耳に入った男性は、吐き捨てるように、「門徒ものしらずや」と言いました。
 この使い方は、実にたいへんな間違いです。私たちの先祖・先輩方は、浄土真宗の教えを大切にされ、他宗の方々がどのようにしておられても、日や方角などの吉凶に一切とらわれることなく、阿弥陀さまのみ教えを生活の基盤にしておられたのです。
 その様子を見た他宗の人びとが、浄土真宗の「門徒は、物忌みをしない人びと」だということで、「門徒物忌むことを知らず」と言う言葉が定着したのですが、いつの間にか「忌むこと」が消えてしまい「門徒物知らず」になったと伝えられています。
 み教えを大切にし、もっと胸を張って、「門徒物知らずですから」と言える、み教えを基盤とした生活をしたいものです。 
※物忌み(国語辞典大辞泉より
  神事などのため、ある期間、飲食・言行などを慎み、沐浴をするなどして、心身のけがれを除くこと。潔斎。斎戒。 夢見の悪いときや、けがれに触れたとき、また、暦の凶日などに、家にこもるなどして身を慎むこと。

 

 荘厳の基本は、本願寺阿弥陀堂の内陣です。私をすくわずにはおれないとはたらいてくださっている阿弥陀如来さまのみ教えと、お浄土の様子が少しでも私たちに親しめるように、形に表してくださったものです。
 それがお寺の規模に合わせた、お内陣の荘厳(おかざり)となっています。
 それを基本に各家庭にご安置されたものがお仏壇(お内仏)です。
 私をおすくいくださるはたらきを表している「ご本尊」を、ご安置申しあげるために、お仏壇はあるのです。
 「分家ですから…」「まだ死んだ人はいませんので…」といってお仏壇を持つ必要がないとおっしゃる方も多いようです。それはお仏壇を先祖壇・位牌壇・お骨壇と勘違いしておられるのではないでしょうか。
 私がお慈悲に気づかせていただく場こそが、お仏壇であり、私が仏法に出遇わせていただいてこそ仏事なのです。お仏壇・お寺を中心に行われるのは、すべて私が仏法に遇わせていただくご縁、「仏事」「法事」なのです。
 
このことが抜けますと、形はどのようであっても、単なる行事やお斎を食べるだけの食事になってしまいもったいないことになってしまいますので、心していただきたいものです。

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