真実の道 釈尊のさとりと浄土真宗



◆祈り、服従の宗教と目覚めの宗教◆



 宗教と一概に言っても、世界には多種多様な宗教があります。いずれも平和を求め、人間の救いをめざすことを表明しています。だから、宗教はいろいろあっても、行き着くところはみな同じだという人がいますが、決してそうではありません。殊に仏教は、それ以外の宗教と根本的に異なった特色をもっています。いま仏教以外の宗教について考えてみますと、ほぼ二種類に分けられます。
 一つは、自分の欲求の不満足な面をよりよく叶えてもらうために、人間より力のある神仏に祈る「祈りの宗教」のあり方です。たとえば、人間の力ではどうしようもない不二の病におかされて、神に祈り、その力で助けてもらおうとすることなどです。試験に受かるように神様に祈ったり、交通事故にあわないように祈ったりするのもそうです。直接的なご利益を願って神仏にお参りする、というような多くの信仰がそのような宗教に属します。
 もう一つは、人間を超越した全知全能の神があり、真理はただその言葉にあらわされていて、それに従うことが信仰であるとする「服従の宗教」です。イスラム教やユダヤ教、キリスト教などの一神教的啓示宗教がこれに属します。この宗教では神こそが正義であり、神を畏敬(いけい)し、その命令に従うことが信仰なのです。
 仏教はこのいずれも否定し、いずれでもない救いの方法を説くものです。その内容は、これまでにすでに述べてきたことですが、いま要点を再説してみますと、他宗教との違いの第一は真理観の特徴です。
キリスト教などの啓示宗教(けいじしゅうきょう)では、神のみが真理を示すとしますが、仏教では「如来、世に出ずるも出でざるも、法(真理)は恒に定まれり」と釈尊自身言っておられるように、釈尊は、すでに定まっていることでありながら、自己中心に心に支配されている私たちでは見ることのできなかった真理を発見し、明らかにされたにすぎません。そして、この発見は釈尊の勝れた実証的な観察によって実現したことです。決して、神のお告げや、特殊能力によってではありません。
 人生すべてが苦であるということ。すべてのものに実体がないということ。すべてが相互に関係しあって成立しているということなどのあり方は、誰もが認めざるをえない普遍的事実です。それが仏教における真理(法)なのです。
 だから、仏教の真理は、時代の変化や新しい知識によって変わったり、ゆらいだりすることがありません。そして、その把握に特別の能力を要求されることでもありませんから、先覚者たる釈尊の指導に従えば、だれでも同じように真理を見ることができます。特定の民族を選んで示されたと
いった性格もありません。ここに仏教を他の宗教と分ける基本的な違いがあります。
 第二の点は、その真理を知ることによって迷妄(めいもう)を断じ、真の自己への転換を実現するという救いのあり方です。 他の宗教が、偉大なる神の力によって、天国に生まれることを救いとする他律的な体系であるのに対して、仏教は、あくまでも自分自身が真理を知り、迷いの自己に気づき、それによって目覚めた本当の自己への転換を実現しようとする自立的体系です。いわば「目覚めの宗教」です。そこに実現するのは、もはや何ものにも束縛されたり、従属したりすることのない真に自由な自己です。
 右のような仏教の特色が、親鸞聖人によって顕らかにされた、浄土真宗の基本でもあることは言うまでもありません。
 仏教は、このような特色の宗教性をもって、今日の問題にどのように応えうるのでしょうか。


◆仏教は平和の宗教◆ 


 生きているものが、お互いに相手の生命を奪うことなく、平和にその生を全うできることはもっとも大切なことです。宗教はどれでも、そのような平和を求め、人間の幸せを願っているのでしょうか。その宗教が原因で争いが起き、多くの命が失われることも歴史が証明するところです。特定の神の教えのみを真理として、異教徒を改宗させ、さもなくば征服して神の真理をゆきわたらせようとする姿勢は、「服従の宗教」に多く見られるところです。しかし、このような考え方では、その目標が最終的に幸せの実現をめざすものであったとしても、争いの起こることは避けられません。普遍的真理に立つ仏教では、自分の神のみが正義であるとする、独善性や権威主義は基本的に否定されます。生命あるものがお互いにおかしあうことなく、それぞれがその存在を認めあい、自己の尊厳を確立しているのが仏教の特色です。そして、和は、自己の正義に立って対抗するものを服従して実現するのではなく、逆に、法に照らしてみるとき、お互いが欠点多き凡夫であると気づき、同じ地平にある存在であることを自覚することによって、はじめて実現するのであると考えるのです。いわゆる「服従による平和」ではなく「内省(ないせい)による平和」をめざすものです。自己のみを正とし、相手を克服してゆこうとするところに争いは絶えません。
 この和の原理は、国と国との問題だけでなく人と人との社会や家庭内での関係でも同様です。今日、国際化が進み、いろいろな宗教、いろいろな
考え方の人が争うことなく、共存してゆくことが求められているとき、仏教の教えるところが注目されるべきでしょう。


◆仏教は平等の宗教◆


 人間の自己中心の心は、おのずから自分のみを高とし、相手を低く見ようとする態度を作りあげています。それが差別の心を生み出しているのです。そのような心を捨てさせ、平等にすべてを見れるような人にすることが仏教のならいです。釈尊は、生まれや身分によって先天的に差別があることを認めず、すべてのものが真理に目覚め、仏になることができることを明らかにされました。 
 そのような平等性が成り立つ根拠は、仏教の真理が、啓示宗教(けいじしゅうきょう)に見られるように、特定の人にのみ明らかにされる性質のものではなく、すべての人に共有できる普遍的真理であるところにあります。宗教の中には、神の意志によって特定の民族のみが神の恩寵(おんちょう)にあずかりうることを主張し、異教徒を排斥(はいせき)するものがありますが、仏教は、民族や人種、才能の有無を問わず、同じ真理にもとづいて、同じ仏になることを教える宗教です。仏教が世界宗教としてどのような民族にも広がっていったのは、この特色によるものといえましょう。
 また仏教のめざす智慧とは、ものを区別して見ようとする分別心(ふんべつしん)を取り去った無分別心(むふんべつしん)です。その心で見れば、お互いに凡夫であり、対立し避難しあう要因はどこにもなく、助け合ってゆかなければならない存在であることが明瞭(めいりょう)になってきます。人間ばかりではありません。動物でも植物でも、その生命に差はありません。仏教の平等観は、今日の人間中心主義にも反省を加えるものであるといえましょう。


◆科学時代に問われる仏教とは?◆ 


 先に述べましたように、神の言葉にのみ真理が啓示されていると見る宗教では、人間が実証的に得た客観的科学的真理と神の示した真理とが異なる場合、往々にして争いになることがあります。普遍的な科学的真理を認めず、実証的真理と啓示的真理とは基本的に異質と考えられているからです。
 その点、「無我」や「縁起」などの仏教の真理は、釈尊の実証的観察のよってえられた普遍的結論で、だれでもが認める客観的真理です。
 仏教はあくまでも、事実としてのあり方を求め、それを真理とします。その真理観もそれにいたる方法も、いわば科学のそれと一致します。その点で仏教と科学とは共通する面があり、基本的に矛盾するものではありません。
 ただし、現在の科学は、科学している主体である人間そのものに眼を向けず、それ以外の外の物を対象としている傾向があります。それに対して、仏教は、人間そのものを問題として取り上げているところに根本的な違いがあります。同じ人間なのにどうして憎みあい、争いが起きるのか。仏教はその構造を明らかにし、原因を自己中心の煩悩に見いだしてゆきます。観察の方向を自己の心に向けて、そのあり方を仏教ほど分析している宗教は他にありません。事実を観察して、迷妄(めいもう)の生じる構造と原因を明らかにし、その原因である愚かさをなくして、本来の人間への回復を計ろうとするのが仏教の体系です。
 今日の科学技術は、たしかに私たちの生活を便利にし、人間の福祉に貢献しました。しかし、異常なまでのその進歩には、人間の抑制を超えて暴走するのではないかという不安が感じられます。科学が戦争の道具として使われ、人類を破滅させる可能性のあることは歴史が証明するところです。科学の発展に、どのよな問題があるのでしょうか。
 科学を生みだした西欧には、それを発達させる反面、宗教からの抑制がありました。しかし、神の示した規範(きはん)で科学を抑制することが困難になった現在、科学は新たな問題に直面しています。
 思うに、問題は、科学する人間そのものが視野に入っていないところにあるのではないでしょうか。科学を進め扱うのは、自己中心の心と欲望をもった人間であることが忘れられてはなりません。その人間が知られ、制御されなければ、科学は欲望拡大の手段となり、更には、争いの道具となり、人間喪失をまねくのは当然のなりゆきです。仏教はその人間そのものを問題にします。自分自身の迷妄性を明らかにし、その方向を内から変えてゆくこの教えこそ、今日の科学の問題に曙光(しょこう)を与えうるものではないでしょうか。
 右にとりあげたのは平和と平等、それに科学の三点においてですが、そのほか、数々の問題が私たちのまわりにあり、これからも現れてくるに違いありません。そのとき、釈尊の示された「如実知見(にょじつちけん)」という事実を冷静に見つめる現実直視の眼とは、変化する社会に対応し、次々に生ずる障害をとりのぞき、問題に解決を与えてゆく大きな力となることでしょう。


◆真実の道―仏教、浄土真宗◆

 
 現代直面している混迷の多くは、人間至上主義の広がりによって、人間が頂点となり自己自身を見る眼を失ったところに原因があるのではないでしょうか。人間そのものを省みることをせず、欲望の拡大によって幸せが実現できると考える方向に問題の解決はありません。そのことを明確に指摘し、平等にして平和な社会と尊厳なる人間の実現を果たしうるもの、それは自分自身を根底から問い直す仏教をおいては他にはないのではないかと思われます。
 迷いの人間を真の人間に転換し、争いの社会を平和な社会へと導く「真実の道」、それこそ何ものにも代えがたい宝です。先人は仏教がその宝であることを見定めていました。だからこそ、あの艱難(かんなん)のシルクロードを超えて、仏教は伝えられてきたのです。親鸞聖人は、この教えに出会ったことを「遇(あ)ひがたくしていま遇ふことを得たり」と喜ばれました。私たちもまた、この勝れた教えに出会い、それを学びえたことを喜びとしたいと思います。


◆現実を直視する◆


私たちは次々に起こる不幸を前に、厭(いや)なことはなるべく見ないように、私には起こらないようにと願います。そして、神に祈って不幸から護ってもらおうとします。釈尊は、そのような他に頼って現実から目をそらす逃避の方向をとられませんでした。
 そして、厭な現実をもはっきり自分自身で見きわめ、人のせいにしたり何かの力に頼ったりするのでなく、なにが原因かをつきとめ、それを根底から取り除くという解決の方向をとられました。
 一般に宗教では、「神のことば」であることを根拠にして真理であるかを判断し、たとえそれが事実に違ったことであったとしても、それにしたがうことが信仰だとみなされています。当時、インドにもそのような宗教的権威がありました。しかし、釈尊はそのような権威によって真理を決定したり、神の思召しにまかせるという立場をとられませんでした。私たちが目をそらしている苦の現実に向きなおり、さけていたゆえに見出せなかった苦の正体を自らの眼ではっきり見つめ、苦の本当の原因はどこにあるのか、その原因はどうして取り除けばいいのか、一切の先入観を取り去って事実の冷静な観察のすえ、ついにその答えを見出されたのでした。
こうした「諦観(たいかん)(明らかに見る)」・「如実知見(にょじつちけん)(事実をそのままに見 る)」とか言われる現実直視の姿勢は釈尊の思索(しさく)の根底に流れているもので、それこそ仏教を成り立たせている基本的な考え方です。他の多くの宗教が真理は神から啓示されるもので、人間の方から見れば近寄れないものとするのと全く違った仏教の特質として注目しなければなりません。


◆釈尊の発見◆


現実直視の観察の結果、釈尊は次のような今まで誰も気づかなかった重要な事実を発見されました。


   ①苦は外に存在して私を苦しめているものではなく、私の自己中心の心(我執(がしゅう)・
    煩悩(ぼんのう))が造りだしているということ。
   ②その原因となっている自己中心の心は、私たちがものの本当のあり方に無知であり、
    事実を誤認して受け取っていることによって起こるのであるということ。



 まず前者のことについて、私たちは苦しいことはお金がないからだとか、ものが足りないからだとか原因は外にあると常識的に考えています。したがって、外の条件がととのえば幸福になると考えています。しかし釈尊は、むしろ事実はその逆であって、苦しみや楽しみを造りだしている原因は私の方にあるということを見きわめられました。「心が造りだす」とは、私たちは眼で見たり耳で聞いたりしてものを知り、判断して行動します。そのとき正しく見、聞いていると思っていますが、はたしてそうでしょうか。「気をつけていなかったので見過ごした」とか「腹が立っていたので、耳に入らなかった」とかのことがしばしば起こっています。ちゃんと見ていると思いながらも、実は自分の思いや関心で世界が変わって見えてしまうのです。釈尊はそのことを「すべては心が造りだしたものである」と言われます。
 ところが、このように世界を造りだす心の正体は、いつも自分と自分に属するもの(我・我所)に自分に都合がよいように思ってはたらいている自己中心の心です。自分に好ましいものはあくまで欲し(貪欲)、自分に厭なものは排斥しようとする心(瞋恚(しんに))です。自分に好ましい意見は正しく、自分を批判する考えは間違いだとする心です。このような心をもとにして世界を造りだす心ですから、それはすでに歪んでいます。にもかかわらず、私たちの見ているものは正しいと思いこんでいます。私がそのような自分勝手な世界を造っているだけではありません。人もまた同じように、その人の都合を基準に歪んだ世界を造りあげています。そのことに気づかず、両方が正しいと主張すれば争いは避けられません。
 このように観察してみるとき、私たちが「苦」と思っているものの実体は無く、私が造りだしたものにおびえ、それによって争っていたにすぎません。このような悪循環が「迷い」にほかなりません。しかし、私たちはそのような悪夢の中にいることさえ気がつかずに迷いつづけています。それが「凡夫」あるいは「衆生」と言われる私たちの姿です。このように釈尊は、私たちの苦悩の現実、迷いの原因が私たちの内なる煩悩の心にあることを明らかにされました。


◆ものの本当のあり方◆


 迷いの原因が私たちの内なる煩悩にあるとすれば、それを取り除くならば苦悩の迷いから脱却が果たされることになりましょう。しかし、それはどのようにして可能でしょうか。そのような心が起こらないように常に欲望を抑えつけてゆけばよいのでしょうか。釈尊は六年間山に入って断食などの厳しい修行を経験された結果、それのみでは可能ではなく、煩悩が起こるについては更に根本的な原因があることを発見されました。それが前述の第二の発見です。すなわち私たちの自己中心の心がはたらくのは、私たちが「ものの本当のあり方を見ていない(無明(むみょう))」ところに原因があるということです。釈尊は、菩提樹の下で「十二因縁」の順観・逆観の観察をおこない、苦を引き起こしている迷いの構造を分析し、この結論に到達されたのでした。
 それでは、「ものの本当のあり方」とは、どういうことをいうのでしょうか。また、それはどのようにしたら見られるのでしょうか。
 私たちはいろいろな現象の中で生活しています。それらはかななずしも目に見えるものばかりでありませんが、いま仮に「もの」ということにします。それらは一見ひとつひとつ独立に存在しているようですが、よく観察してみるとすべて例外なくいろいろの要素が「より合って成立」しています。そのようなあり方が「縁起」といわれるものです。また、ものはそのように「縁起」としての存在ですからそれらのどこにも永久不変の実体のようなものを認めることはできません。そのようにすべてのものに実体の無いというあり方は「無我」と言われます。また、ものは常に変化していて、変わらずに存在し続けるものは一つとしてありません。このことは「無常」と言われます。見方の違いや表現の違いはありますが、いずれもものの事実としてのあり方に他なりません。
 これらの事実は説明されてみると当然のこととおもわれます。しかし私たちには、それを認めたくない我執のために本当に分かっていなかったの
です。釈尊が明らかにされたことによって、初めて知り得たわけです。とはいえ、そのようなことが釈尊が出られることによって、突然に新しく発生したわけではありません。釈尊の出生するか否かにかかわらず、ずっと事実としてあり続けていることです。その事実こそ「真理」であって「法」と言われ「真如(しんにょ)」と言われることです。


◆法を見る 目覚めへの転換◆


 事実を知らない(無明)ことが、私たちの心を誤った思いにかりたて、混乱の世界(迷い)をひきおこしていることが明らかにされました。この状況を正常に回復させるには「無明(むみょう)」の私たちが「明」の私たちになること、すなわち法を見、誤りの原因を断ち切って正しい思考や生活ができるようになることが大切であることを釈尊は教えられるのです。
 たとえば迷いの根源となっている自己中心の心(我執)は、私たちが知らず知らずのうちに「私」というものに、変わらない自我があるかのように認めていることから起こっているのではないでしょうかしかし、そのような自我はどこににも存在しませんその事実がはっきり分かるならば、「私というもの」へのとらわれの心(執着(しゅうじゃく))は、おのずから根拠を失って消えうせてしまいましょう。そうすれば人も私も同じ弱い存在であるということ、そのような弱い私がすべてのもののおかげで生かされているという事実が見えてくるでしょう。
 ものの本当のあり方(法、真如)を見、知るということそのことこそ私たちを迷いから目覚めへと転換させるものです。その「もののあり方を正しく見る能力」それが「智慧」といわれるものです。仏とは、その智慧を完全に得たものに他なりません。


◆教えを説く◆


智慧の眼が開き仏となられた釈尊は、このように迷いから目覚め、真実のあり方に生きることこそ、この貴重な人生をもっとも大切に生きる生き方であると確信されました。そこにこそ私たちの究極の幸せの実現があるからです。
 しかし、人々はそれに気づかず、誤った生き方を本当の生き方だと思いこんでますます苦悩を増しています。目覚めたものとして、この状況を見過ごしにできるでしょうか。誤りを気づかせ、正しいことは何であるかを教えて、同じく目覚めた人にさせてゆかねばなりません。その実践は「やらなければならない」ことというよりも「やらざるをえない」悟れるものの必然的な自発的活動であるというべきでしょう。
 悟りを得て仏になられた釈尊は、まもなくそのような動機から、鹿野園での「四諦八正道(したいはっしょうどう)」の教えをかわきりに、八十歳で亡くなられるまでの四十五年間、仏に到る道をことばを通して私たち凡夫に説き示されたのでした。ここに初めて仏になる道が私たちに顕らかにされ、設けられることとなりました。教えて人を仏に導くということ、それが仏教における「救い」ということです。また、他に利益を与える意味において「利他行」と言われます。はるかな過去から誤り、迷いつづけている私たちが、自らの力で先入観を破り正しくものを見てゆくということは至難のことです。釈尊の教えによってはじめて気づくことができるのです。釈尊の教えを聞き、ものの本当のあり方を見る智慧の眼を開いてゆくことこそ、仏教を学ぶということ、あるいは仏道を歩むということです。


                            上山大峻(うえやまだいしゅん)先生 聖典セミナーより
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