◇浄土真宗は究極の仏教
◆念仏して仏になる道こそ釈尊の本意◆
『大無量寿経』に示される「念仏して仏になる(念仏往生)道」は、ただ仏の名号を聞き、仏の願いに順うだけの教えですから、どのような人にも可能であり、しかも差別なく平等に最高の仏になることのできる仏教です。これこそ仏教の本来の趣旨であり、釈尊の願いでありました。
釈尊自身がいろいろの教えを述べられていたこともあって、長い仏教の歴史のあいだには誤解が起きて、仏教本来の目的を外れてしまったこともありました。親鸞聖人はそれらを見きわめて、この念仏往生の道こそ、釈尊のもっとも説きあかしかった教え(出世本懐(しゅっせほんがい)の教)であり、仏教の本道であることを明確にされたのでした。
◆念仏を自分の善行とするかぎり仏にはなれない◆
さらに、親鸞聖人は、たとえ同じ念仏往生の教えであっても、もし念仏を自分の力で行う実践であると思うものがあるとするならば、それは私たちのすべてをすくわんとする絶大なる仏の願いを疑っていることとなり、したがって、疑いの心がまじって、清浄なる心は起こらず、完全なる仏になることは不可能であることを明らかにされました。
重要なのは、汚れた私の善行ではなく、仏になる実践ができない私に気づき、仏のはたらきにすべてを託して自己中心の心を取りさることなのです。
自分の努力によって磨いた智慧には、煩悩の曇りがどうしても残りますが、仏の他力によって開発された信心の智慧には一点の曇りもありません。また、自分で磨いた智慧ならば、その度合いに応じて結果にそれぞれ違いが出てきますが、仏から起こされた智慧は、どのようなものにも平等に開いた同じ仏の智慧です。したがって、みなが同じ仏因をもって同じ浄土に往生することが可能なのです。
このことは他力の仏教によってはじめて実現することです。しかも、浄土往生を説く教えの中でも、すべてを仏のはからいにまかせ、仏の智慧を与えられて救われる、絶対他力の「浄土真宗」の教えによってのみ可能な
ことなのです。
親鸞聖人は、この「浄土真宗は、大乗のなかの至極なり」と断言されています。この教えによって、平等にすべてのものが最高の智慧を得て仏になることをめざす、仏教の究極の目的がほんとうに実現することになるからです。
◇真実の利益
これまでに、どのようにして私たちに仏因が与えられ仏になることができるのか、ということを説明していただきましたが、今回は、仏因を得、仏の智慧を与えられた私たちにどのような特徴が現れてくるか、ということについて述べていただきましょう。
◆仏になることこそ本当の利益◆
浄土真宗では、阿弥陀仏を信じたら、病気がすぐに治ったとか、熱心に拝んだから大学受験に合格したとか、名号を貼っておいたら火事にあわないとかの直接的、物理的利益があるとはいいません。そのような直接的な効果を期待する宗教ではないのです。そのような利益を期待するのは私たちの欲望の延長であって、その心こそが問題なのです。
浄土真宗の利益(りやく)は、直接的な利益は現れませんが、阿弥陀仏の本願を信じ、智慧を与えられたものには、その智慧がはたらいて本当に利益(真実の利)が現れます。
それは、何よりも私たちが必ず仏になることが出来るということです。仏になるはずのない私が、迷いを断ち切り、仏になるということほど大きい利益はありません。それは、私たちが日常求めているどのような利益よりはるかに大きく、確かな真実の利益(りやく)なのです。
◆知恵の働きによって真実が見える◆
【現生に十種の益(やく)を獲(う)】といわれています。
①冥衆護持(みょうしゅごじ)の益、②至徳具足(しとくぐそく)の益、③転悪成善(てんあくじょうぜん)の益、④諸仏護念(しょぶつごねん)の益
②諸仏称賛(しょぶつしょうさん)の益、⑥心光常護(しんこうじょうご)の益、⑦心多歓喜(しんたかんぎ)の益、⑧智恩報徳(ちおんほうとく)の益
⑨常行大悲(じょうぎょうだいひ)の益、⑩正定聚(しょうじょうじゅ)に入る益
浄土真宗の念仏者には、右の大利益の他にも、仏から与えられた知恵の働きから、考え方や生活のなかにいろいろな変化や特徴が現れてきます。
ただし、仏の方から与えられる他力の浄土真宗の信心の智慧の働きは、意識的自覚的ではありません。自力聖道門の教えでは、自分の努力で智慧をみがき、智慧ある人になったことを自覚してゆきますから、「修行によりこれほど煩悩が少なくなり、仏の位に近づいた」などと言いますが、他力の信心は、本来自分の力を否定し、煩悩の身である認識の深まりによって起こるものですから、自覚されないのが他力の智慧の特性です。ですから、念仏の行者は、智慧を得て「これほどに、私はなった」とは言わないのです。
しかし、自覚されるか否かにかかわらず、智慧の働きに変わりありません。むしろ、他力の智慧であるからこそ、その働きはすべての人に平等で完全です。確実に念仏者の中で輝いて、その考え方や生活態度を変えてゆくのです。
ただし、浄土真宗の場合、私に与えられた知恵が働くと言うより、仏の智慧の光明に照らされて真実が見えるようになるという、それこそが知恵の働きであると理解されます。それはどのように現れてくるのでしょうか。
◇信心の輝き
◆不安が喜びへと転じられる世界◆
私たちは明日をも知らぬ無常の中に生きる存在でありながら、自分の生命に限りがあることさえ認めようとしません。また幸せを求めながらも、それに反して苦悩と争いの中に過ごしています。しかも、それが本当の生き方ではないということに気づいていません。
釈尊は、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で真理を悟られ仏になられたとき、「この深い教えは、世の流れに逆らうものであるから、話してみても皆が聞こうとしないであろう」と心配されたと経典には書かれています。「世の流れにしたがう」とは、欲望が満足されることが幸せであると誤解している世間的、常識的な考え方です。たしかに、この考え方が間違いであると気づくことは大変難しいことです。私の方からはおそらくできないことです。しかし、智慧の光明に照らされることによって、私たちが自分に気づくことのできなかった現実の姿が明らかになってきます。
そこに露呈(ろてい)されるのは、私もふくめて何一つとして変わらないものはなく、当てになるものはないという無常の現実です。そのような現実にありながら、明日もあると期待しながら空しく人生を過ごしている愚かな私の姿です。自分中心の虚構の世界を描き、その中で苦しんでいる迷いの私のあり方です。
しかし、光をうけて迷いに気づかされることによってはじめて、仏の教えを聞き、目覚めることの重要さを知ることができるのです。さらに、このような私に迷いに現実を知らせ、目覚めへと導こうとする仏の存在と願いとを知らされるのです。
また、そのような無常の中にありながら浄土往生に定まり、しかもいま生きているという有り難さと、一人で生まれて一人で死んでいくという本来、孤独である私が仏の大きな心(大慈悲心(だいじひしん))の中にあり、また多くの人々の支えによって生かされていることに気づきます。このように気づかされるとき、いままで無常の不安におののき、欲望が満たされないことに不平不満であった私が、よろこびと感謝の私へと転換されてゆくのです。
◆無惨無愧の自己を知る◆
光に照らされて見えてくるもの、それは自分さえも気づかなかったみにくい恥ずかしいわが姿です。無常の現実にあることも忘れ、自己の欲望ば
かりを求め、常に自己中心的に思考して、不足・不満を連発して周囲を不快にし、争いをひきおこしているわが姿です。
親鸞聖人は、自分は蛇やサソリのような心をもつものであるといわれ、罪の深い凡夫であると厳しく反省されました。また、罪をおかしても全く
恥ずかしく思わない(無惨無愧(むざんむぎ))自分であるとも言っておられます。
このような深い反省は自分の方から出てくるものではありません。真実の光にあったもののみおこることです。みにくい自分の姿を見たもの、そのとき私たちの本当の人間としての生き方を問わざるをえません。念仏は、恥ずかしい迷いの私であることに気づかせ、真実の法を聞き、 真の人間に立ち戻らせてゆくのです。
◆平等の心が育む自他同一の世界◆
智慧とは、はからい(分別心)なく、事実をそのまま見ることができることです。自己中心の心を去り、仏の計らいにすべてをまかせた(信心)念仏の行者にも、その智慧の眼がそなわってきます。
私たちは自己中心の分別心(はからい)によって自分勝手な善悪、有無などの判断を加え、自分の造った虚構の世界の中で苦しんでいます。しかし、善悪や有無などの概念には何らの実体もないのです。悪であり厭(いや)なものだと思っているのも、その先入観の枠を取り去って視点を変えて見ると、以外にそうでなくてむしろ私にとって大切な助けであったと気がつくことがあります。本来、ものには悪や善などの決まった本質(自性(じしょう))は存在しないのです。各々が姿や性質は違いながらも、それぞれ大切な存在であり生命をもったものなのです。
念仏によってわが計らいが取り去られるとき、ものをそのまま見、そのまま受けとめる心が開けてきます。相手の存在を真に認める平等の心もそこにこそ生まれてくるのです。そうすると、それぞれが、この無常の世に生きている弱く悲しい存在であることがわかってきます。そこに単なる同情ではなく、共に凡夫であるという自覚をもととした真の共感と助け合いが生じてきます。
たとえば、いろいろの花が咲いています。それを、私たちは自分の好みや値段で評価して美しい花とか嫌いな花とか区別してみています。しかし、その先入観を取り去り、それぞれが生命をもつ花として見るとき、いずれもが美しく咲いていることに気づくことでしょう。大きい花は大きいなりに、道端の名もないような小さな花も小さいままに精いっぱい咲いている姿に優劣はありません。平等の心は、計らいなきところにはじめて起こることです。そのように認め合うことこそが人を生かし、自分も生かされてゆく真に社会的な人間関係をつくりだしてゆくのではないでしょうか。
そして、真の平和はそのようなものの集まるところにこそ実現するのではないでしょうか。自己のみを正としとし他を排斥するところには平和はありません。親鸞聖人は、すべての人は父母・兄弟であり、同じく仏に照らされている同胞(どうほう)であるとされました。また「世のなか安穏(あんのん)なれ、仏法ひろまれ」と言われ、念仏によってはからいのない人に育てられてゆくことこそが真の平和を実現することであると理解されたのでした。
◆本当の自己の確立◆
真実の光に照らされるとき、私たちが自己中心の独断と狭い考えに閉ざされていたことに気づくことでしょう。浄土真宗の信心を得るということは、狭い自己中心の心が崩壊し、事実を事実として見ることのできる智慧が開眼することです。それによって、ただ時代や常識に流され、権威に盲従して付和雷同(ふわらいどう)する主体性のない自分が転換し、法に基づいた自立した自己へと生まれ変わるのです。それは、釈尊が「自らを灯(ともしび)とせよ、法を灯とせよ」といわれて、権威者の言葉をそのまま盲信してしまうことを戒め、また真理に基ずくべきであって、自分の間違った知識に頼るべきではないと教えられた仏教の根本的姿勢に一致するものです。
親鸞聖人は、念仏弾圧する人々のことを著作のなかで「主上臣下(しゅじょうしんか)、法に背き義に違し…」と、時の天皇も上皇も真理を見誤っていると厳しく批判されています。また、親鸞聖人は「かなしきかなや道俗の 良時(りょうじ)・吉日(きちにち)えらばしめ 天神・地祗(じぎ)をあがめつつ卜占祭祗(ぼくせんさいし)つとめとす」と、私たちのすぐに迷信に走る自立性のない宗教意識を嘆きとともに批判しておられます。聖人は、権威の中にひそむごまかしを見定め、法に照らして何が事実であり何が偽であるかをはっきりと認識されていたのです。
◆たゆまざる育てのなかで◆
念仏者は、浄土往生の利益を得るとともに、仏智に照らされての種々の特性が備わってきます。しかし、仏因が備わっているとはいえ、また、仏の知恵が働いているとはいえ、私たちは今生にある限り、なお煩悩深き凡夫のままです。親鸞聖人は「凡夫といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず…」と、生あるかぎり、この煩悩の心身は変わるものではないと言っておられます。
光を仰ぎ、真実の世界を知らされるほど、自己の無慚無愧(むざんむぎ)であることをますます恥かしく思われてゆくことです。しかし、それこそ、仏の智慧が私の上に働いている証拠であるといえましょう。法を聞き、ますます凡夫である私の姿を知らされてゆくことにこそ念仏者の確かなあゆみがあるといえましょう。
上山大峻(うえやまだいしゅん)先生 聖典セミナーより