◇信心獲得の章
親鸞聖人のご命日(十六日)晨朝のおつとめで、「正信偈」につづいて拝読される御文章が、この「信心獲得の章」です。まだ夜の明けきらない薄暗がりの中で、「信心獲得すといふは…」というご文をいただくたびに、気持ちが「ハット」と張りつめるのは、信心をいただくということが私たちにとって最も関心のあることがらでしょう。今回は、この御文章をもとに浄土真宗の信心の特色について講じていただきましょう。

※学習のポイント
 (1)浄土真宗における信心の特色について考えてください。
 (2)親鸞聖人は、現生の利益において何を強調されたのでしょうか。
 (3)「煩悩を断ぜずして涅槃をう」という言葉をどのように考えたらよいでしょうか。

【註釈版本文
 信心獲得(ぎゃくとく)すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をここうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆゑに南無と帰命する一念の処に発願回向(ほつがんえこう)のこころあるべし。
これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましすこころなり。
これを「大経」には「令諸衆生功徳成就(りょうしょうしゅじょうくどくじょうじゅ)」と説けり。
されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもく願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆゑに、
正定聚不退の位に住するとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。
この義は当一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰(さた)あるからざるところなり。
よくよくこころうべきものなり。あなかしこあなかしこ。

【意 訳】
 信心をいただくということは、第十八願のおこころを聞かせていただくことです。
この願を聞くということは、南無阿弥陀仏のいわれを聞かせていただくことです。
このゆえに阿弥陀如来のおおせにまかせた一念のところに、発願回向のこころがあるのです。
これは阿弥陀如来が凡夫を救わずにおれない、との願いをもって、回向してくださるこころであります。
これを『無量寿経』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ)(もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ)」
と説かれています。
 そこで、はるか昔よりつくり続けてきた悪業や煩悩をすべて残らず如来の願力の不思議なはたらきによって
消滅してくださる道理がありますので、
正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位につくことになるのです。これによって「煩悩を断つことなく涅槃をうる」というのは、
この意味であります。このみ法は浄土真宗だけが説くところのものです。
他宗派の人に対して語ったり論ずるべきではありません。よくよくこころえなければなりません。あなかしこ、あなかしこ。

■「信心獲得」のお手紙

 この御文章の成立の背景もはっきりしませんが、『御文来意鈔』には、蓮如上人七十二歳(文明十八年)の時、
海南市冷水浦の喜六太夫(了賢)のところにいかれて、
その地の作四郎という同行の臨終にあたって書き与えられた、と記されています。
 蓮如上人の数多くの御文章の中で、その冒頭から「信心獲得」と、信心から述べはじめられるのは他に例がありません。
 だからそれだけ、この言葉は聞く人に鮮烈な印象を与えることとなって、日常拝読する勤行聖典にも古くから記載され、
「信心獲得の章」 として親しまれてきました。

■浄土真宗における信心

この御文章の内容的にみれば三段に分かれます。
①信心をいただくことをまとめてしめす
  「信心獲得」~「すがたをこころうるなり」
②信心をいただいたものの利益をあらわす
  「このゆゑに」~「といへるはこのこころなり」
③みだりに論ずることをいましめられる
  「この義は」~「こころうべきものなり」
とすることができます。
 まず第一段について味わってみます。ここでは、信心をいただくということは、
第十八願のおこころを聞かせていただくことである、と説かれています。
 宗教が多種多様ですから、そこで説かれている信心もその内容はさまざまですが、
浄土真宗における信心をまとめてくださっているのがこの文章であって、ここは繰り返し味わいたいところです。
宗祖は、『教行信証』「信文類」のなかで、浄土真宗の信心を明らかにして、
    「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心ある
    ことなし、これを聞というなり。「信心」といふは、
    すなはち本願力回向の信心なり

と示されています。このご文は『大経』の第十八願成就文の、
    あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと
    乃至一念せん

の解釈であることを考えれば、宗祖において「名号を聞く」ことは、
「仏願の生起本末を聞く」ことであり、それは、悲しみ、苦しみ、愚痴の人生を送る私たちに、
阿弥陀仏が必ず救うとの本願をたてられ、その実現のために長い思惟と修行によって、
それをしあげて今よびつづけてくださっていることを聞く、ということです。
 さらに宗祖は、「疑心あることなし、これを聞といふなり」としめされます。
これは、この阿弥陀仏の救いのおはたらきに、疑いをもたず、
はからいの自力心がなくなったことを「聞」といわれるのであり、『一念多念証文』に、
    きくといふは、本願をききて疑うこころなきを「聞」といふなり。
    またきくといふは、信心をあらわす御のりなり

とあるご文とあわせて味わうと、浄土真宗の信心がどのようなものであるかが一層よくうかがえます。
それは、私が努力してつくりあげるものではなく、理解しようと一生懸命になるものでもありません。
かえってそのような自力の心がなくなったところにいただけるのですから、「本願力回向の信心」といわれるのです。
ここに浄土真宗の特色があるといえます。
 さてこの第一段の表現は、『安心決定鈔』の、
    浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。
    …第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり

の文を想起することになります。このご文は、『蓮如上人御一代記聞書』の第一八五条にも、
蓮如上人の仰せとして、その前半がそのまま引文されています。
『安心決定鈔』という書物の著者は不明ですが、蓮如上人はとくにこの書を重視されました。そのことは、
  一、前々上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、
  御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ

の言葉がよく示されています。

■信心の利益とは

 この御文章は、全体を通して、とくに信心の利益について述べられている部分が多いことに気づきます。
そのなかで、初めに発願回向、すなわち阿弥陀如来が衆生をすくおうおとの本願をおこされて、
その如来から一切の功徳を回向されることを説かれます。そして「されば無始以来」以下は、
願力によって滅罪されることをしめされて、現益として正定聚不退の身とさせていただくことを強調されています。
このことを宗祖の『教行信証』「信文類」のお言葉によってうかがいますと、
    煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌往相回向の心行を獲れば、
    即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に
    住するがゆゑに、かならず滅度に至る。

としめされるように、他力の信心をいただくと同時に正定聚の位に入り(現益)、
この世の命が尽きたとき直ちに往生即成仏の果をうるという当益を明らかにされています。
したがって、浄土真宗の利益は現当二益とおさえなければなりません。
 わたくしたちが通常、利益を口にする場合、具体的に形にあらわれたり、
はっきりと見えたりするものを期待することになります。
実生活に根ざす当面の悩みから合格祈願や商売繁盛、また病気回復などの願いが数多く生じてきます。
もし何かの宗教に没頭していくことになって、みずからの主体性を失ってゆきます。
また一生懸命に信じてもご利益がない場合、自爆自棄となって「下手な鉄砲も数撃てば当たる」の言葉のように、
あらゆるところに足を運ぶことにもなり、ますます迷いを深めていくことになります。
さらに死を目前にした場合、生きたいとの願望一つになって、他の願いはすべて色あせてしまします。
このような悩みを持っている人にとって、浄土真宗は具体的に答えてくれないとの声もありますが、
これに関していえば、自己の本当の姿に気づかせ、迷いからめざめさせ、
永遠に生きる道を明らかにしてくださるすばらしい利益がしめされているといえます。
親鸞聖人のおこころは、『一念多念証文』の「正定聚」の文字に左訓されて
「往生すべき身とさだまるなり」や「かならず仏になるべき身となれるとなり」と解釈されることによってうかがえます。
 すなわち信心をいただいた人は、ふたたび迷いの世界を輪廻することなく、
「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしいとときたまふ」と和賛されて、信心の人の広大な利益を讃えておられます。
 このように正定聚の利益が中心となるのですが、宗祖はまた、
    金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
    かならず現生に十種の益を獲

               「教行信証」「信文類」

と述べられて、十種の利益として、
①冥衆護持(みょうしゆごじ)の益(諸天善神にいつも護られる)
②至徳具足(しとくぐそく)の益(名号にそなわる尊い徳がいただける)
③転悪成善(てんあくじょうぜん)の益(罪悪を転じて念仏の善と一味となる)
④諸仏護念(しょぶつごねん)の益(諸仏に護られる)
⑤諸仏称讃(しょぶつしょうさん)の益(諸仏にほめたたえられる)
⑥心光常護(しんこうじょうご)の益(如来の光明につつまれて常に護られる)
⑦心多歓喜(しんたかんぎ)の益(心が真のよろこびに満たされる)
⑧知恩報徳(ちおんほうとく)の益(如来のご恩を知らされ報謝の生活をする)
⑨常行大悲(じょうこうだいひ)の益(如来の大悲を人に伝えることができる)
⑩入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)の益(やがて仏になると定まった人の仲間に入る)
これらの利益に共通することは、いずれも精神的なものであることです。
望むものが何でも与えられるということは果たして幸福でしょうか。
 『無量寿経』に、
    田(た)あれば田に憂(うれ)へ、宅(いえ)あれば宅に憂(うれ)ふ。…田なければ、
    また憂へて田あらんことを欲(おも)ふ。宅なければまた憂へて
    宅あらんことを欲ふ
。      「大無量寿経」
とありますが、あっても悩み、なくても悩みがつきないのが私たちの人生です。
したがって、あって喜べ、なくて喜べる、有無を超えたところに示されるのが、確かな利益といえるのです。
「念仏者は無碍の一道なり」の言葉も、さわりがあっても、さわりとならない人生がひらける、
との念仏者の強い生き方がしめされています。
 つぎに、作り続けてきた悪業や煩悩が如来の願力の不思議な働きによってすべて消滅する、
と滅罪の利益が説かれています。これについては詳細に検討すればたいへん煩雑な問題がありますが、
ここでは『蓮如上人御一代記聞書』第三五条のご文によってうかがいますと、
    一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、『御文』にあそばさされたり。
    しかるに罪は命のあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。『御文』と別にきこえまうし候ふやと、
    申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、
    罪はさはりともならず、去れば無き分なり、命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり

と述べられています。ここには、一念の信心にそなわっている功徳の力によって往生は定まるのであるから、
罪はあっても妨げとはならず、ゆえに罪はないと同じであるとの蓮如上人のおこころが示されています。
さらにこの文に続いて、
    罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。
    罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、
    われとしてはからふべからず

としめされて、この世に生きている限りは罪は尽きないのであるから、罪の有無を論議するよりは、
むしろ信心をただいているか、いないかをくり返し吟味するほうがよい。罪が消えて救われるのであっても、
罪が消えないで救われても、それは阿弥陀如来のおはからいであって、
凡夫である私たちがはからうことでないと結ばれています。
 すなわち、願力不思議の力といっても、罪を消滅してくださるはたらきに、ただ漫然と甘えすがるのではなくて、
かえって自分を厳しく省みることになります。そこで私たちにおいては、罪を消して救われるのではなく、
自らの罪に気づいて救われるのですから、罪はまったく妨げにならず、
したがって浄土真宗における信心の生活においては、罪業の身という私たちのありのままの姿を、
はっきりとみすえながら生きる人生がひらかれてくるのです。
 自分を知るものは順調な人生にあっても溺(おぼ)れることなく、
逆境にあってもそれを乗り越える力がみなぎってくることでしょう。
 信心獲得の正定聚(しょうじょうじゅ)の人は、広大の仏恩を仰いで喜びつつ、
同時にみずからの罪業の深さに慚愧(ざんぎ)しつづけるのです。この御文章を通して、
私たちは信心をいただくことをまず急がねばならない、ことを知らされます。

                                                       清岡 隆文 先生
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