「正信偈」全体の構成


▼本願念仏の教えをあきらかに



 ここでもう一度、「正信偈」全体の構成を振り返ってみましょう。


●まず最初の「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」~の二句は
 親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏のお救いをこころから信じ喜んでいる旨を述べられたものであります。


次に、「法蔵菩薩の因位のとき」から以下はその信ずる法義の内容を述べられます。
 これは真実の教えとされる『大無量寿経』によって示されます。
●この中、「必至滅度(ひっしめつど)の願(第十一願)成就なり」までの十八句は、
 阿弥陀仏の法義そのものを出されます。
この中がさらに二つの部分になっています。
「一切の群生(ぐんじょう),光照(こうしょう)を豪(かぶ)る」までの十四句は阿弥陀仏の因果、
「本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり」より以下の四句は
 衆生往生の因果を示されています。弥陀成仏の因果によって衆生往生の因果が成立するのです。その衆生往生の 因として「本願の名号は正定の業なり」といわれる行と、「至心信楽(ししんしんぎょう)の願(第十八願)を因とす」と いわれる信と、この信行を獲ることによって、現生にあって仏となるべき身に定まり、命終わって往生成仏の果を得 るという利益が恵まれるのです。以上が阿弥陀仏の法そのものを示されたものです。


つぎに、「如来、世に興出したまふゆゑは」より「難のなかの難これに過ぎたるはなし」までの二十四句は
 この世に出られた釈迦仏の教えを示されます。
その中、「如来如実の言を信ずべし」までの四句は
 釈迦仏がこの世に出られた本意は阿弥陀仏の本願を説くことにあった旨を述べて、この釈迦仏の教えを信ずべき  であると、私たちに信を勧められた。
「よく一念喜愛(いちねんきあい)の心を発すれば」より以下の二十句は、
 さまざまな利益(りやく)をあげて信を勧め、疑いを誡める釈迦仏の教えが述べられています。
以上で『大無量寿経』よって述べられる一段が終わります。
以上、「難のなかの難これに過ぎたるはなし」までのご文は依経段(えきょうだん)『大無量寿経』による一段と呼びならわされています。最初の二句を含めて数えると依経段は四十四句となります。


次に、「印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、大聖(釈尊)興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応 ぜることを明かす」という四句は、総じて七高僧が釈迦仏の本意を明らかにし、阿弥陀如来の本願が私どもを真に 救う法である旨(むね)を明らかにされたといわれるのです。このことは一応、依経段と依釈段との二段に分けられ  るけども、依釈段は依経段に示された『大無量寿経』の法を承け伝えて、これを明らかにされたものであることが知 らされます。


●次に、「印度西天の論家」より以下、七高僧の一人ひとりについてその説き示された法義の要旨を述べられるので す。龍樹・天親・曇鸞の三師については十二句ずつ述べられ、道綽・善導・源信・源空(法然)の四師については八 句ずつで示されています。龍樹・天親の二師は菩薩(大士)であり、曇鸞大師以後の五師は人師(菩薩の位でない  師)でありますが、曇鸞大師は菩薩に準ずるお方として尊崇されていますので、上の三祖は讃嘆される句数が多く、 下の四祖はそれより少ない句数にされたものであろうと考えられます。このことは、『浄土文類聚鈔』に示されてい る「念仏正信偈」についても同様になっています。


そして最後の「弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師等」以下の四句は、信を勧められます。
 以上、依経段・依釈段の一々のご文については、すでにその意味をうかがってきたところであります。


▼みずから信じ、人を教えて信ぜしむ


 この六十行百二十句(二句で一行とかぞえます)の「正信偈」の言わんとする要点はどこにあるのでしょうか。
一口にいえば、親鸞聖人の自信教人信(じしんきょうにんしん)(みずから信じ、人を教えて信ぜしむ)ということになると思われる。
最初の「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無してたてまつる」の二句は、自信教人信の「自信」(みずから信じ)であり、依経段の初めの「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」の四句と、依釈段の最後の「弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし」の四句とは、教人信(人を教えて信ぜしむ)になっています。ですから、百二十句の「正信偈」の要は自信教人信であって、親鸞聖人がみずから信ずる法を私たちにどうか信じてくれよとお勧めくださる切なる願いが示されているのです。
 そして、このような自信教人信の偈文をお作りになったことは、親鸞聖人ご自身の仏恩報謝の営みであります。そのことは「正信偈」の前文(偈前の文といわれる)に、


   しかれば大聖(釈尊)の真言(しんごん)に帰し、大祖(だいそ)の解釈(げしゃく)に閲(えつ)して、
   仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知(しんち)して、「正信念仏偈」を作りていはく 



と述べられていることからも知られています。このご文の意味は、釈迦牟尼仏の説かれた『大無量寿経』の教え、すなわち阿弥陀仏の本願の法に帰依し、曇鸞大師が『往生論註』に「恩を知りて徳を報ず」等と述べられた解釈を拝見して、仏恩の深遠なることを信知して「正信念仏偈」を作って言う、と述べられたもので、仏恩報謝の思いから「正信偈」を作られたことが知られます。
 また、「正信偈」の要(かなめ)は自信教人信にあるといいましたが、「自信教人信」は善導大師の『往生礼賛(おうじょうらいさん)』のあるご文で、「信文類(しんもんるい)」の真仏弟子の釈と、「化身土文類(けしんどもんるい)」の自力疑心を誡められるところに引かれています。その全文をあげると、


  仏の世にはなはだ値(もうあ)ひがたし。人信慧(ひとしんね)あること難(かた)し。 
  たまたま希有(けう)の法を聞くこと、これまたもつとも難(かた)しとす。
  みずから信じ、人を教へて信ぜしむこと、難(かた)きなかにうたたまた難(かた)し。
  大悲弘(だいひひろ)くあまねく化(け)するは、まことに仏恩(ぶっとん)を報ずるに成る



と示されています。みずから信じ人を教えて信ぜしめることは難中の難であるが、大悲の法をひろく世の人々にお伝えすることが真の仏恩報謝になるといわれるのです。



▼蓮如上人のおさとし


 『蓮如上人御一代記聞書』の第三十二条に、
    一、のたまはく、朝夕(ちょうせき)、『正信偈』・『和讃』念仏申すは、
    往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御(おん)たづねあり。
    皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、
    往生のたねにはなるまじきという人もありけるとき、
    仰せに、いづれもわろし、『正信偈』・『和讃』は、衆生の阿弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、
    後生(ごしょう)たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、
    ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり



と示されています。このご文の意味は、「朝夕に『正信偈』をよみ、『和讃』を添(そ)えてお念仏を称える勤行は、浄土往生の因になるか、往生の因にならないのか」と、蓮如上人が僧侶たちにおたずねになった。各自のお答えのなかには「往生の因になるでしょう」という者もあった。そのとき上人の仰せに「どちらも悪い。『正信偈』も『和讃』も、衆生が阿弥陀如来を二心なく信じて後生たすかれよ、という道理をお示しくださったものである。よくこの『正信偈』や『和 讃』、のおこころを聞きわけて、信心獲得(しんじんぎゃくとく)の身となって、親鸞聖人の御前で喜ばせていただく報謝の行である」と、念を入れて仰せられたというのです。
 「正信偈」を拝読する心得として、この蓮如上人のおさとしを銘記すべきでしょう。


▼「正信」とは、「念仏」とは、「偈」とは

 
 「正信」とは正しい信心ということで、邪偽(じゃぎ)の信や虚仮(こけ)の信に区別されます。邪偽(じゃぎ)の信とは正しい道理に契(かな)わない、よこしまな信心であり、虚仮(こけ)の信とは、如来の真実に対して凡夫の虚仮不実(こけふじつ)の心で思いかためる信心であります。また正信の「正」とは「聖智」の意味で、仏智をいただいておこさしめられる信心であると味わうこともできましょう。
 現代、日本にもさまざまな宗教があります。宗教法人として届け出たものだけでも何万もあると聞きますから、届けられていない宗教もあわせるならば、何十万あるいは何百万にもなるかもしれません。それらの宗教はいずれも信心とか信仰ということを説かないものはないでしょう。その多くは攘災招福(じょうさいしょうふく)を祈るものか、人倫道徳を表に説きながらやはり攘災招福(じょうさいしょうふく)を期待するものでありましょう。そのような宗教によってすべての人びとが救われるでしょうか。また他方では科学が万能であるかのように信じ込んで、無信仰を誇りのように公言する者もいます。
 正しい心のよりどころをもって、一切の迷信邪教(めいしんじゃきょう)に惑(まど)うことなく、安らかに人生を生きていける道は、無量寿・無量光の仏に帰依する以外にはないと思います。これが「正信」であります。
 正信の念仏の「念仏」とは、口に仏のみ名を称えることであります。本願(第十八願)には、


   十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念(ないしじゅうねん)せん


等と誓われています。「心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ひて」は信心であり「乃至十念せん」が称名念仏(しょうみょうねんぶつ)であります。南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)のおこころが私に知られたのが信心であり、それが口に声となって出てくださるのが称名念仏であります。


 「信文類」には、
   真実の信心はかならず名号を具す

    


と述べられています。ここの名号は称名(しょうみょう)のことで、真実信心をえたものはかならず称名(しょうみょう)がともなうといわれるのです。
 『歎異抄』にも、


   本願を信じ念仏を申さば仏に成る


と示されているように、正信念仏こそ大切であります。その念仏は仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の思いから称えさせていただくのです。
「偈」とは頌(じゅ)とか偈頌(げじゅ)と訳されます。正信念仏の讃歌、なんとすばらしいではありませんか。私たちが一生涯(いっしょうがい)親しみ、くりかえし拝読(はいどく)して味わせていただくお聖教、それがこの「正信念仏偈」であります。

 
                                             灘本愛慈先生

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