教行信証 正信念仏偈



浄土真宗の教えを理解する上で、最も重要なところです!!


【原典版】

本願名号正定業 至心信楽願為因

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就





【書き下し文】
本願の名号は正定の業なり。     至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、 必至滅度の願(第十一願)成就なり。

【意 訳】
本願成就の名号が私を浄土に往生させてくださる力であり、その名号を信ずる一つで私は救われる。
仏となるべき身に定まり、浄土でさとりをひらくのは、必ず仏果に至らせようという仏の願いが成就したからである。




■私たちが救われるべき理由とかたち


 法蔵菩薩が誓願をおこされ、その誓願を成就して阿弥陀仏となられたという弥陀成仏の因果を述べられました。この一段は、その弥陀成仏によってできあがった衆生往生の因果を示されます。衆生往生の因果とは、私たちがどのように救われてゆくか、ということを明らかにされるのです。わずかに四句のご文ですが、きわめて大切なおみのりが示されています。



■名号となって私の心にとどいてくださる



「本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう)」の一句は、
本願成就の名号が、まさしく往生の決定する業因(果を得させる力)であるといわれます。
「本願」というのは、迷えるすべての人々を救わねば仏にならないと誓われた阿弥陀仏の根本の誓願です。
阿弥陀仏の根本の誓願(第十八願)です。
その誓いの通り、私たちを救う力を成就されたのが阿弥陀仏です。
その阿弥陀仏の成就された功徳の全体を南無阿弥陀仏の名号として、私たちに与えて下さるのです。
では、どのようにして与えて下さるかというと、
十方の諸仏が名号のわけを讃嘆(さんだん)すること(第十七願)によって与えて下さる。
つまり、十方の諸仏がたが名号の素晴らしさ、たのもしさを讃(たた)えてくださっているからといえましょう。
このことを具体的に私たちの上でいいますと、
仏であるお釈迦様が、阿弥陀仏の名号のわけを讃えた『大無量寿経』、
さらにひろげますと「浄土三部経」において、私たちにお説きくださっていることです。
お釈迦様は、阿弥陀仏の名号を私たちに与えるために『大無量寿経』説いてくださったのです。
 その釈迦仏によって讃嘆されている名号が、私たちを浄土に往生せさてくださる力であると言われるのです。
「正定業(しょうじょうごう)」とは、衆生が正しく往生の決定(けつじょう)する業因(ごういん)ということであり、
その「業因」とは果を得させる力を意味します。



   子(衆生)を持つ母(阿弥陀仏)はさまざまな食物を食べてこれを消化します。
   その結果がお乳(名号)となって出てきます。そのお乳が子を育てる力となるのです。


 阿弥陀仏は一切衆生を救おうという願いをおこし、真実の知惠と慈悲を成就して、南無阿弥陀仏となってくださいました。その名号が私たちを浄土に往生させて仏のさとりを開かせる力となり、「我にまかせよ必ず救う」とよびかけてくださっているのです。その名号が私の心にとどいてくださったのが他力の信心であり、その喜びを声に出して相続するのが他力の念仏です。
 この、「本願の名号は正定の業なり」の一句に、『教行信証』行文類一巻のおこころがおさまっているといえましょう。



■徹底しておまかせする世界



 次に「至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因す」というのは、
阿弥陀仏が与えて下さる名号を私の心にいただくことによって、
浄土に往生すべき身にならせていただくことを示されます。
 「至心信楽(ししんしんぎょう)」というのは、『教行信証』の中では、
「心を至し信楽して」と訓読されます。この読み方によれば「心を至し」は、
信楽を形成する語とされますので、心から信楽する、徹底して信楽するというように、
「信楽(しんぎょう)」の意味を強める言葉と見られます。
 そこで、「信楽」とはどういうことかといいますと、
「信」は無疑(むぎ)、「楽(ぎょう)」は愛楽(あいぎょう)の意味であります。
「無疑」というのは、名号の義(わけ)をよくお聞かせいただいて、疑いの心がすっかりとれたことです。
本願の救いをあるがままに受けいれたことです。
だから「無疑決定(むぎけつじょう)」とか「決定して深く信ずる」とかいわれます。
また、「信」にはまかせるという意味もあります。
まかせるというのは、
阿弥陀仏のおんはからいに一任して、私のはからいをまじえないことです。
私がはからうのは仏にまかせきっていないことです。
信楽(しんぎょう)の「楽」の字はたのしむという字です。
本願成就文には、
「その名号を聞いて、信心歓喜(かんぎ)せん」(『大経』四一頁六行)と説かれている。
「信楽」の信を「信心」といい、「楽(ぎょう)」を「歓喜」といわれたのです。この「楽(ぎょう)」(歓喜)は、信心のところにある満ち足りた喜び、安らかな喜びを示されるのです。



■なぜ宗祖は至心信楽の願を真実の願とされたか



 阿弥陀仏の四十八願の中で、人々を浄土に往生させようという誓われた願が三つあります。
第十八願と第十九願と第二十願とです。

 親鸞聖人は、第十八願が真実の願であって、第十九願と第二十願とは方便の願であるといわれます。
方便の願というのは、本願他力の救いをあるがままに受け入れることができない自力心の人を、
他力の救いに引き入れるために設けられた誓願です。
第十九願はさまざまな善い行いを積み,それを業因として往生を願うものであり、
第二十願はお念仏を称(とな)えるという行為を業因(ごういん)として往生を願うものです。
 これに対して、第十八願は名号の義(わけ)を聞いてこれを信じ喜び、
お念仏をいただいて往生を願うものです。

三願共に往生を願うのですが、第十九願と二十願とは、
自分の積んだ行いを業因として往生を願うのですから、
仏願力によって救おうとされる仏智(ぶっち)を信じていないことになります。
だから真実の浄土には往けないのです。本願の救いをあるがままにいただく第十八の願の行者のみ、真実の浄土に往生させていただけるのです。その本願の救いをあるがままにいただくことを示すのが「信楽」です。第十九願や第二十願には、「信楽(しんぎょう)」はないのです。
 そこで、親鸞聖人は、第十九願を
自分の行為をタネ(業因)として往生をねがう(発願)ことから、
「至心発願の願」(第十九願)、
第二十願を、自分の称名による功徳を回し向けて往生を願うことから
「至心回向の願」(第二十願)と呼ぶのに対して、
第十八願を「至心信楽の願(ししんしんぎょう)」といわれるのです。
第十九願の「至心発願」も第二十願の「至心回向」も、
自分の功徳を積んだ善をもって往生しようと願う自力の心です。
、ところが、第十八願の法は、「任せよ必ず救う」という仏の呼び声、
すなわち南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をいただいて喜ばせていただくのであって、
私の力を用いるのではありません。
その名号が私の心にいただいたのを「信楽(しんぎょう)」というのです。
この信楽一心で私の往生は決定(けつじょう)するのです。これを信心正因といわれます。
 なお、「至心信楽」の「至心」を、先に信楽をつよめる言葉だと述べましたが、
真実心と解釈されるば場合には、その真実心は阿弥陀仏の真実心です。
煩悩のけがれのない真実清浄の心は私たちの上にはありません。
私たちの上にはないから阿弥陀仏が成就して与えてくださるのです。
その真実心というのは名号なのです。たすけるにまちがいないという仏の心が私にとどいて、
たすかるにまちがいないという信心になってくださるのです。
 また、「至心信楽の願を因とす」と、「願」という言葉を出されてあるのは、
信楽というものは私がおこすのではなく、願力によっておこさしめられる信楽であるという旨をあらわされます。
第十八願の法は、本願を信じ念仏もうす者を往生させようという願いですが、
その本願を信ずることもお念仏申すことも、願力のはたらきにほかなりません。
 「至心信楽の願を因とす」の一句は、『教行信証』信文類一巻のおこころを示されたものと味わわれます。


■私が受け入れてこそ力となる


 ところで、「本願の名号は正定の業なり」の一句は、名号が往生の業因(果を得させる力)であると示し、「至心信楽の願を因とす」の一句は、信心が往生の正因であると示されていますが、この名号と信心、業因と正因ということについて、もう少し考えてみましょう。
 このあと、船のたとえでわかりやすく説明しますが、まず、結論から申しますと、本願成就の名号が往生の業因であるから、他力の信心が正因であるということになります。業因というのは果を得させる力をあらわします。往生成仏の果を得させる力は名号にあるということを示されるのが「名号は正定の業なり」という、名号正定業です。でも、その力を私が受け入れなければ、私の力とはなりません。名号を信受することによって、仏の往生させる力が私の往生する力となってくださるのです。そのことを示すのが信心正因です。



    船(名号)は沈むものを乗せて渡すはたらきがあります。
    でも、その船に私が乗らなければ(信心)私は彼の岸(浄土)に渡る(往生)ことはできません。
    私の病を治す薬(名号)ができてそれを与えられても、
    私が服用(信心)しなければ私の病はなおりません。



このたとえでいいますと、名号は船であり、薬であります。信心は船に乗ること、薬を服用することであります。船に、沈むものを乗せて渡す力があるから、この船に乗ることによって船の力がわが力となって、私は彼の岸に着くことができるのです。薬に病を治す力があるから、この薬を服用することによって、薬の効用が私の力となって病が治るのです。


■私が私の判断によって船に乗るのか


 このたとえは、おみのり(浄土真宗の教え)をわかりやすく表しますが、おみのりと同じでないところがあります。たとえでいえば、船には乗せて渡す力はありますが、その船に乗るのは私の判断であり、私の行動です。薬には病を治す力があっても、それを服用するかどうかは私の分別です。しかし、おみのりの上では、阿弥陀仏の願力を信ずる(右の場合、私が船に乗ったり薬を飲む)ことも本願のはたらきです。私の思慮分別によって決めるような信心は、他力の信心とはいえません。信じさせるという名号のはたらきが、私に信心をおこしてくださるのです。名号が私の心の中に入ってくださったすがたが信楽なのです。『和讃』に、


     生死の苦海ほとりなし
      ひさしくしづめるわれらをば
      弥陀弘誓のふねのみぞ
      乗せてかならずわたしける

               

とうたわれています。乗せて渡してくださるのが本願の船であります。

■信心を得た念仏者は弥勒、そして如来に等しい


    
「等覚(とうがく)を成り、大涅槃(だいねはん)を証する」というのは、名号を信受した者の得る利益(りやく)を示されます。この中、「等覚を成り」というのは、信を得た者がこの世で現に得る利益ですから現益(げんやく)といわれます。
「大涅槃(だいねはん)を証す」というのは、当来(とうらい)(将来)に得る利益(りやく)ですから当益(とうやく)といわれます。当来に得るというのは、人間としての寿命が尽きたとき、浄土に往生して仏果をさとることです。
 「等覚(とうがく)を成り」といわれる等覚とは、仏道を歩む菩薩の中の最高の地位です。仏のことを正覚(しょうがく)といいますが、その正覚とほぼ等しいという意味で等覚(とうがく)といわれる。本願を信ずるものは、次の生には仏果をさとるべき身になっている、という意味で「等覚を成り」といわれるのです。弥勒菩薩(みろくぼさつ)は等覚の位ですから、信を得た者を「便同弥勒(べんどうみろく)」(すなわち弥勒に同じ)ともいわれます。『教行信証』の信文類に、「便同弥勒」ということが述べられています。ここではその本文を出さないでわかりやすいように意訳で示します。



     まことに知られる。弥勒菩薩は、等覚の金剛心を得られたかたであるから、竜華三会のときに至って、
     まさに無上仏果をきわめられるであろう。念仏の衆生は、他力回向の信心を得た者であるから、
     この世の命終わって、浄土に生まれたちどころに仏果をさとるのである。
     それゆえ、この世にあってすでに弥勒と同じいから「便同」というのである。


等とあります。信心を得た人のことを、「等覚」あるいは「便同弥勒」、さらには、「如来と等しい」といい、また「正定聚」とか「不退の位」とか、いろいろないい方をされますが、いずれも仏となるにまちがいない身になることを表されるのです。これは死後のことでわなくて、現在この身においていわれる利益です。これこそ、名号(みょうごう)を信受することで得られるこの上なく大きな真実の利益であります。



■信心を得た念仏者の生き方とは


しかしながら、信を得たことによって、私がすっかり変わって仏のような人間になってしまう、と考えるのは誤りです。『



一念多念証文』には、
     「凡夫」というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、
     欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
     臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、
     水火二河(すいかにが)のたとへにあらはれたり。
           


と示されています。この一文を見ても明らかであります。信を得たのちも、死ぬまで「欲ばりで、怒り、腹立ち,嫉(そね)み妬(ねた)む心多い」凡夫であるという私の自性は変わりません。変わらない凡夫のままで、仏となるべき身にならせていただくのです。
 それなら本願を信ずる前も信じた後も、まったく変わりがないのかというと、そうではありません。


親鸞聖人の『御消息』には、
    ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、
    こころのままにしてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、
    いまはさようのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。




等といったことを繰りかえし述べられています。おおざっぱに申しますと、阿弥陀仏の本願を信じ、お念仏申す身となった人は、それまで自分勝手なわがままを通し、悪い行いばかりを積み重ねてきたことを自省(じせい)し、そうした心を捨てようと心がけることが、当然な態度だということです。信心をいただいて往生を願う身になった以上、本性まで変えることはできないが、人間として正しく生きていこうとするのが、念仏者の姿勢であるといわれているのです。
 私たちはつい、凡夫だからしかたがないなどとごまかしたり、横着を決めこんだりします。しかし念仏者はつねに自分の生き方を自分の心に問い続けていくという厳しい一面があることを見落としてはいけません。




■涅槃、そして積極的なさとり


 「大涅槃を証す」というのは、すでに述べてきたとおり、この世の命終わって、浄土に往生して直ちに無上仏果(この上ないさとり)をさとらせていただくことであります。「涅槃」というのは、燃えさかる煩悩の炎を吹き消した寂静の境地をあらわします。それは単に自分だけが迷いを離れて悟りの世界に入るというような消極的なものではなく、他のすべての人びとを安楽ならしめようと活動する積極的なさとりですから、それを強調する意味から「大」の字をつけ「大涅槃」といわれるのです。
 「必至滅度(ひっしめつど)の願成就なり」というのは、「滅度」は、大涅槃(だいねはん)のことで、迷いの因果を滅して生死海(しょうじかい)を渡るという意味です。私たちが浄土に往生するということは 、無上仏果をさとることであり、その無上仏果(むじょうぶっか)をさとるということは、必ず滅度に至らせよう(往生成仏)という阿弥陀仏の願い(第十一願)が成就したからである、といわれるのです。
 なお、この「正信偈」の中、「本願名号正定業」から「即横超截五悪趣」までの文については、親鸞聖人ご自身の解釈を『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』(六七0頁)に示されています。是非ともお聖教をひらいて、味読(みどく)していただきますと、さらに味わいが深まると思います。


                                                 灘本愛慈先生

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