▼釈尊の予言 釈尊は『楞伽経』に、ご自身の滅後、南インドに龍樹菩薩が生まれられ、 この上ない大乗の法を説き広められるだろうと予言されました。 「正信偈」には、 釈迦(しゃか)如来、楞伽山(りょうがせん)にして、 衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまはく、 南天竺(なんてんじく)に龍樹大士(りゅうじゅだいじ)世に出でて、 ことごとく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。 大乗無上(だいじょうむうじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、 歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して安楽(あんらく)に生(しょう)ぜんと とうたわれています。 |
◇龍樹菩薩の教え
この釈尊の予言によって龍樹菩薩が出世(この世に生まれること)され、弥陀の本願を説き広められたのです。ですから、釈尊出世の本意である弥陀の本願を、釈尊滅後に初めて広めてくださった方こそ龍樹菩薩なのです。
弥陀の本願の真実は、釈尊がこの世に出られると否かとにかかわらず、無限の過去からはたらき続けていたのです。この真実のはたらきにうながされて、釈尊がこれをさとり、これを説かれまた諸仏方も出世されたのです。
▼出家の動機
龍樹菩薩→西暦150年から250年頃の人と考えられています。彼は南インドのバラモンの家に生まれ、バラモンとしての教養は言うに及ばず、当時のあらゆる学問を身につけ、俊秀の誉れ高かったと言うことです。
▼有無の邪見を破られた
親鸞聖人は龍樹菩薩を
「ことごとくよく有無の見を摧破(ざいは)せん。大乗無上の法を宣説(せんぜつ)し」
と讃えられました。
有無の見とは、有の見、無の見という二つの誤ったものの見方を言います。
【有の見】…人間は死んでも、なお魂が生前と同じように存在すると見る考え方です。
地獄におちるか極楽に往くかは知らないが、
魂は生前と同じように生き続ける(霊魂不滅)と考えるのです。
地獄におちたら大変です。ですから死ぬことが恐ろしくて仕方がないことになります。
【無の見】…人は死ねば灰になり、何もなくなってしまうという考え方です。
これは現代の人々に多い考え方だと思います。
死んだら灰になるのは自分の肉体かもしれませんが、この考えでは、
死んだら生前に自分との関係がすべて無に帰することになります。
この世のすべてが無に帰することになります。絶対の暗闇、
絶対の孤独の中に死んで行かねばなりません。これもまた恐怖のほかはありません。
☆人間の迷いとは、ものごとを有とか無とか二つに分けて、どちらか一方に執着し、
その結果自分で自分の苦を招いているのだと考えられました。
◎私たちは、無数の因や縁によって、仮に今、ここに存在しているにすぎないのです。
◎しかし、私たちは因縁によって存在していることを無視して、魂の有無を考える傾向があります。
けれども、そのこと自体が誤りなのです。魂が有るとか無いとか決めつけず、有無にとらわれずものを見ることが、
真実のものの見方であると龍樹菩薩は考えられました。
【因縁】…すべての存在は、それを成り立たせる原因や条件に支えられて存在している。その原因を因といい、条件を縁という。
◎私たちが有無にとらわれない見方が出来るようになるためには、
生きることも死ぬこともすべて阿弥陀如来のはからいにまかせることであることを、
はじめて教えてくださったのが龍樹菩薩でした。
▼偉大な龍樹も往生を願われた
龍樹菩薩は、真実を明らかにするために多くの著書を残されました。
『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』『大智度論(だいちどろん)』『十二礼』など二十三部、数百巻。
龍樹菩薩→「八宗の祖」とも言われた。
「八宗の祖」…南都六宗に、天台・真言を加えたものであるが、転じてすべての仏教宗派の意味になった。
龍樹を八宗の祖というときは、龍樹が大乗仏教のすべての宗派の祖師という意味。
▼難行道は困難な道である
龍樹菩薩は仏教には難行道と易行道とがあり、弥陀の本願に乗ずる道は易行道である、ということをはじめて教えてくださった方です。
難行の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、
易行(いぎょう)の水道、楽しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
▽難行道、自力の修行によって初地に至るには三つの難があると言われるのです。
①もろもろの難行を行じなければならない。
②「久しくして得る」とあるように、長い時間続けなければならない。
③長い修行の間に声聞・辟支仏地(びゃくしぶつじ)に堕す。
(声聞・辟支仏地とは小乗の悟 りのことです。小乗の悟りは自分だけの救いに満足する悟りです。)
【六波羅蜜】
①布施(施しをすること)・②持戒(戒律を守ること)・③忍辱(たえ忍ぶこと)
④精進(すすんで努力すること)・⑤禅定(精神を統一し、安定させること)・⑥智慧(真実の智慧を得ること)
▼易行道を勧められた
龍樹菩薩は我々凡夫の進むべき道を易行道としてお示しくださいました。
難行道によって、初地に至ることは、遠い陸路を歩いていくような困難な道である。
しかし信方便の易行(信心を内容とする称名。本願を信じ念仏申すこと)によって、早く初地に至る方法がある。
それは水路を船に乗っていくようなもので楽しい道である。
と本願念仏の道を水路の乗船に譬えて教えてくださいました。
☆浄土の世界は、仏智によって、真実の智慧によって見られている真実の世界です。
それは有無を超えた世界、人間のはからいをこえた世界です。
その真実の世界に運んでくださる如来の願力のはからいにおまかせするのです。
しかし、それは簡単なことではありません。難行によって救われることの困難さ、
人間の力の弱さ、無力さを痛切に感じる者にして初めて願力の船に乗じ、
如来のはからいに任せることができるのではないでしょうか。
その意味で龍樹菩薩は、難行の困難さを痛感して易行道を勧めてくだされたのだと思います。
▼信心正因、称名報恩は龍樹の教え
【浄土真宗の教え】…信心正因、称名報恩であると言われます。
信心が往生の正しい因で、称名は報恩感謝の心で称えるのだというのです。
本願念仏の教えは、信心を得ると同時に必ず浄土に生まれて仏のさとりを得る身の上に定まると説くのです。
信心を得、すなわち本願の船に乗ったら、必ず浄土の岸に着き、往生成仏させていただくのです。
このような教えは、真宗以外にはありません。他の教えでは、臨終の時に次にどこに生まれるか決まると考えるのです。
ですから臨終の心の持ち方が大変大切になってきます。
しかし親鸞聖人は信心を得た瞬間に念仏が口に出る前に往生成仏が決まると教えてくださいました。
ですから念仏は如来さまへの報謝のために称えるのです。
ところで親鸞聖人は、このような教えはすでに龍樹菩薩が説いてくださっていると言われるのです。
「正信偈」に、
弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)のとき必定に入る。
ただよくつねに如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報ずべしといへり
とうたわれました。
信心正因、称名報恩の浄土真宗の教えは、実は龍樹菩薩が教えてくださったのだと讃えられているのです。
黒田覚忍先生