【現代語訳】
衆生の本願を疑う心を破り、信心の智慧をお与えくださるゆえに、阿弥陀如来を智慧光仏と名づけられた。
一切の諸仏方や、仏教に因縁をもつすべての人びとは、皆ともにこの如来の光明のお徳を誉め讃えられた。
【語 釈】
①無明 智慧がないこと。親鸞聖人は、無明という言葉を二つの意味に用いられている。
一つは、ものをありのままに見る智慧がない、仏の智慧がないかという意味。
『一念多念証文』の「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく」とある無明は、
凡夫にはものをありのままに見る仏の智慧がないという意味である。それに対して、本願を疑うことを無明といわれる場合がある。
今の和讃や、『高僧和讃』の「尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、一念歓喜するひとを、
かならず滅度にいたらしむ」とある無明は、本願を疑う心を意味している。
②智慧光仏 衆生の本願を疑う心を破り、仏の智慧を生じさせる仏、即ち阿弥陀如来のこと。
衆生に信心を与える如来の光明に、清浄光、歓喜光、智慧光と順次に讃嘆されてきた。
しかし、この光明を順次に受けるのではなく、信心がおこった刹那にこの三つの光明を受けるのである。
すなわち信心がおこった刹那に無明の闇がはれ(智慧光のはたらき)、同時に法喜を得(歓喜光のはたらき)、
それとともに業垢(ごつく)がのぞかれる(清浄光のはたらき)。
【講 読】
この一首は、阿弥陀如来の智慧光を讃嘆されます。
「無明の闇を破するゆゑ、智慧光仏となづけたり」、この部分を讃嘆される親鸞聖人は、
『大経』の「かの化生(真実の浄土に往生)のものは智慧勝れたるゆゑなり。
その胎生(方便の化土に生まるる)ものはみな智慧なし」のどの「胎化得失(たいけとくしつ)」と呼ばれている文や、
『往生論註』「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は、十方世界を照らしたまふに障碍あることなし。
よく十方衆生の無明の黒闇を除く…」などの文を念頭においておられたことと思います。
さて、「無明の闇」とある「無明」には二つの意味があります。一つはさとりの智慧がなく、
ありのままに物事を見ることのできない愚かさを意味し、二つには仏智を疑うこと、信心の智慧のないことを意味します。
この和讃では、信心の智慧のないことを「無明」と表せています。
「智慧光仏」とは、阿弥陀如来のことです。この如来は、智慧の光明でお照らしくださいます。
智慧の光明は、今まで見えなかったものを見るようにするはたらき、それまで気づかなかったことを気づかせるはたらきです。
永遠の依りどころ、究極のたのみとならないものをたのみとして、
貧欲、瞋恚に明け暮れているわが身の愚痴(おろかさ)のすがたに気づかされ真実の依りどころ、
永遠の依りどころはただ弥陀の智慧であると思い知らされるとき、阿弥陀如来の智慧を依りどころとした信心の人生が恵まれます。
この如来の智慧が恵まれるとき、そこに自ら「無明の闇が破」られることになります。
「一切諸仏三乗衆、ともに嘆誉したまへり」、この二句は、『大経』の中の「ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。
一切の諸仏・声聞・縁悪・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに嘆誉すること、またまたかくのごとし」とあることによられたものです。
「一切諸仏三乗衆」とは、仏教に種々の立場の違はあるけれども、仏道を歩むものすべてということなのです。
「嘆誉」とはほめること、讃嘆することです。私たちに如来の智慧を得させていただき、無明の闇を破ってくださったのは、
一切諸仏三乗衆のお勧めがあったからほかなりません。
黒田覚忍先生