【本 文】
弥陀の名号となへえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
【現代語訳】
弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えつつ、真実信心を得ている人は、如来の本願を憶念する心が常にあり、仏恩報謝の思いから自然に念仏が称えられるのである。
【語 釈】
①となへつつ 「つつ」の語に三首の訳し方があり、「て」と「ほどふる」と「ながら」である。「て」は名号を称え続けて信心まことにうる、と訳す。「ながら」は雖もの意味で、第二種の和讃にかけて理解する。名号を称えていても、信心まことにうる人と読む。三種のうちいずれでもよいと思うが、次の和讃と関連させ、「ながら」で読むのがよいかもしれない。
②憶念の心つね 憶念は今は信心相続して本願を思い出すこと。「つね」の語に二つの意味がある。一つは衆生に信じられている名号に常住不断の徳があり、これが衆生心中に受けいられているので信心断絶しない、即ち「つね」であるという。これは信じられている名号の徳から「つね」の語を解釈する。他の一つは衆生の信じぶりより「つね」の語を解釈する。衆生は信心をいただいても、常住不断に本願を思いづめに思っておれない。しかし、いつ本願を思い出しても、往生がまちがいないという心は変わりない。その意味で信心が変わらずつづいていることを、「つね」といわれているとする。今は二つの意味を含みつつ、信じぶりについてつねに、と述べられていると思う。
【講 読】
このご和讃は、「三帖和讃」の巻頭にあり、「誓願不思議をうたがひて、御名を称する往生は、
宮殿(ぐでん)のうちに五百歳、むなしくすぐとぞときたまふ」の一首と合わせて
「冠頭二首の和讃」とも呼ばれています。
親鸞聖人は、恩師法然上人より「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられました。
その法然上人の「ただ念仏」のこころは、本願を信じて称えよ、ということであり、
本願を疑う自力念仏ではないぞ、信心が肝要であるぞと教えられているのが、この二首の心であります。
そして、「三帖和讃」全体が、信心を勧め疑いを誡めていますから、
この二首は「三帖和讃」全体の大意を述べられたものともみられています。
「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは」とは、
弥陀の名号を称えても、ただ称えてはたすからない、信心まことに得て称えよと勧められるのです。
信心を得るということは、法蔵菩薩が苦悩に浮き沈みし、
迷いから永劫に出ることのできない私をみそなわして、
「もし生ぜずは、正覚をとらじ」との誓いを発し、私のたすかるいわれも、
信心までも成就してくださって、阿弥陀仏となられ、十万億土の彼方から、
今現に私のところに来てはたらいていてくだされていることを信ずるのです。
私の口から南無阿弥陀仏と出るのは、称えさせねばおかぬ仏心の表れである称える念仏が、
私の念仏ではなく、称えさせてたすけずばおかぬという仏の本願力が私の口に現れてくださるのです。
その南無阿弥陀仏と称えさせる本願力を信ずるのです。
そこに、往生成仏に定まった身の上をたまわり、往生成仏という生きるめあて、人生の目標をたまわるのです。また、老・病・愛・憎などこの世の苦悩を超える生の依りどころをいただくのです。
「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」とは、
信心がこころの奥深くずっと続き、途切れることなくつづいていく、ちょうど二河白道に切れ目がないように、
ずっと続いています。そして折にふれ縁にふれて、仏恩報謝の念仏となってあふれ出るのです。
私たちが念仏を称えるのは、仏にああしてください、こうしてくださいと願う心ではなく、
すっかり私の願いが満たされたとき、大満足が報謝の念仏となって出てくるのです。
わずか一首四十字たらずの詩ですが、心にしみるものがあります。
黒田覚忍先生