【本  文】


光雲無碍如虚空  一切の有碍にさはりなし


光沢かぶらぬものぞなき  難思議を帰命せよ

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【現代語訳】

 如来の光明は雲のように、あまねくゆきわたって法雨をそそぎ、衆生を利益したまい、妨げるもののないことは、
あたかも大空のごとく、現象世界のどのようなもの、この光明のはたらきの障碍となるものはなく、光明の潤いをこうむらないものはない。
不可思議な光明の如来である阿弥陀如来に帰命したてまつれ。

【語  釈】

①光雲無碍如虚空  「光雲のごとくにして、碍わりなきこと虚空のごとし」とも、「光雲無碍にして虚空のごとし」とも読み、光明の無碍である  ことを虚空に譬えられる。この七字は曇鸞大師の作られた『讃阿弥陀仏偈』の語をそのままあげられたもの。
②一切の有碍  一切はすべて、有碍とは有限なる存在ということ。大正生まれの人は昭和生まれに変わることはできない。男も女に変わ   ることはできない。その意味では有限な存在は不自由な存在、さわりある、有碍なるものといわねばならない。 
 それで古写本の左訓に「よろづのこのよのことなり」とある。また特に、衆生の悪業煩悩のさわりあるものということも指す。
③さはりなし  如来の光明は障碍されることのない無碍光であることを意味する。
 『往生論註』に「この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。
 よく十方衆生の無明の黒闇を除く」とか、『一念多念証文』に「無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、
 やぶられぬをいふなり」などとあり、衆生の悪業煩悩に妨げられず、自由自在に衆生を救うはたらきをいう。

【講  読】

 この一首は、阿弥陀如来の無碍光を讃えられます。
 『光雲無碍如虚空』とは、曇鸞大師のお言葉です。
光雲とは、「光」は如来の光明、「雲」とは雲のように潤いを与えるものということで、光明の恵みを表しています。
無碍とは、碍りなし、障碍がない、妨げが無いということです。虚空とは空のこと、広々として障りがないことです。
 如来の光明の恵みに障りがないこと、あたかも大空のように広々して、
山も容れる、ビルも建つ、ロケットも飛ばせる、何も妨げるもののない広いお心です。
 「一切の有碍にさはりなし、光沢かぶらぬものぞなき」とある有碍とは、障碍がある、自由があさまたげられているもの、
制約されているものということです。私たちの目にふれるものは、すべて制約されています。
動物にしろ、植物にしろ、山・川すべて制約された存在です。
ですから「一切の有碍」の左訓に「よろづのこのよのことなり」とある異本もあります。
ともあれ、この世のすべてのものは、もれなく、阿弥陀如来の無碍の光明の恵みを蒙っています。
そのことを「光沢」とい讃えられています。光明の沢潤(うるおい)ということです。
 親鸞聖人は、如来の無碍光について「無碍といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、
衆生の煩悩悪業にさへられざるなり」と述べて、特に衆生の煩悩悪業に妨げられないことを無碍光と味わわれました。
どれほど如来さまに背をむけても、疑っても、誹謗しても、如来さまはけしからんとも、
ひどい目に合わせたともお思いにならない、このように私たちの煩悩悪業にまったく妨げられない広々としたお心のことです。
そして、私たちに悪業も煩悩をもそのままにして、たのめよ必ずたすけるとよびかけてくださいます。
この如来のおよび声、南無阿弥陀仏の願力におまかせする一つで、阿弥陀如来と同じ広々とした無碍のおさとりを得させていただくのです。
 「難思議」とは、阿弥陀如来の別名です。私たちの思いでは、はかることのできない如来さまということです。
煩悩悪業に苦しむ私たちが、南無阿弥陀仏の願力一つで、阿弥陀如来と等しいおさとりを得させていただくことは、
私たちの心では決して思いはかれない広大なお徳であるといわねばなりません。ただただ仰ぐほかありません。  
                                                                      黒田覚忍先生
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