【本 文】 茲光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ |
【現代語訳】
阿弥陀如来のお慈悲の光明は、われわれとははるかに隔たった境地から、いつでもどこでも果てしなく照らし、
その光明に照らされて信心をいただくものは、自らみ法を喜ぶ心が得られると曇鸞大師は述べられている。
衆生の大きな安らぎと慰めとなってくださる弥陀如来を帰命したてまつれ。
【語 釈】
①歓喜光 衆生にお慈悲を喜び浄土往生を喜ぶ心がおこるのは、衆生の能力によっておこるのではなく、
如来の歓喜をここさせる歓喜光のはたらきによって、おこしていただくのであるということ。
②ひかりのいたる 仏の方からいえば、仏光が衆生心中に至り届くこと。衆生の方からいえば、信心を得ること。
③大安慰 案慰(あんに)とは安らぎと慰めとなるということ。『法華経』従地涌出品(じゅうじゆしゅつぼん)などでは、
釈尊の慈悲のはたらきとして「われ今、汝を案慰せん」と使われている。
今この案慰に「大」の字を加えて、もっとも広大な案慰となる仏、阿弥陀如来の別名として用いられている。
案慰のない者が大安慰を帰命することが信心である。
【講 読】
この一首は、阿弥陀如来の大慈悲の光明は、私たちの信心の喜び(信心歓喜)をお与えくださる歓喜光であると讃えられます。
それは『大経』本願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜せんことと乃至一念せん」の意や、
同じく『大経』の阿弥陀如来の光明無量の徳を嘆じられる「それ衆生ありて、この光明に遇うものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。
歓喜踊躍して善心生ず」とある意によって、 信の一念に苦悩の世界を超えて、
さとりを得べき身とさせていただく喜びを嘆じられるのです。
「茲光はるかにかぶらしめ、光のいたるところには、法喜をうとぞのべたまふ」とは、
阿弥陀如来の大慈大悲の光明は、どれほど如来から遠く離れたところにいようとも、どれほど隔てていても、
三世十方に光明を蒙らしめ、この光明が心中に到り届いたところに、
信心の喜び(法喜)を得ると曇鸞大師はお述べになっている、このように詠まれます。
ところで、「はるかに」三世十方を照らす光明を、親鸞聖人は、如来よりはるかに遠く隔たっているご自身、
如来の光を受ける資格もないご自身と受けとめておられたのではないでしょうか。
『教行信証』総序に「ああ、弘誓の強縁、多少にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と述べられています。
如来と「はるかに」隔たり、光に遠く離れているからこそ、本願に値いがたく、信心も獲がたいと教えられるのです。
ですからこそこの「はるか」という語には、如来と境界を遠く隔てているという意味が込められています。
その私たちに十劫の「はるか」過去から茲光がかけられて信心の喜び(法喜)が与えられているのです。
古写本には、「法喜」の左訓に、「歓喜光仏を法喜という、これは、貧欲、瞋恚、愚痴の闇を消さん料なり」とあります。
信心の喜びは私たちのものです。けれども、如来にそむき、はるか如来に隔たった者が信心の喜びを得られたのは、
全く歓喜光仏(阿弥陀如来)より回向された喜びと味わわれたのでしょう。
古写本には「大安慰に帰命せよ」とある部分の左訓に「大安慰は弥陀の御名なり、
一切衆生のよろずの嘆き憂え悪き事を皆失うて安く安からしむ」とあります。
煩悩具足の私たちの生の依りどころ、死の帰することろなり、真の安らぎ慰めとなってくださるのは、阿弥陀如来の外にはありません。
黒田覚忍先生