正像末和讃 恩徳讃(おんどくさん) 五十九首




如来大悲の恩徳は


 身を粉にしても報ずべし


 師主知識の恩徳も


 骨をくだきても謝すべし




【意訳】
  阿弥陀如来よりいただいた大悲のご恩は
 〔かえしきれないご恩です〕
 身を粉にする思いで報じましょう
  釈尊をはじめとして教法をお勧めくださった善き先師の人々のご恩も、
 骨をくだく思いで報じましょう



【解説】
 
『正像末和讃』はどんなお聖教ですか?


◇親鸞聖人の和讃の特徴




和讃は、和語をもって仏・法・僧を讃(たた)える仏教賛歌です。
その形式は七五調で、一句は十二字となり、四句を一章とするものが多く、特に親鸞聖人の和讃は、すべて四句一首の形式になっています。
親鸞聖人はもっとも多くの和讃をつくっておられます。
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』(まとめて『三帖和讃』と呼んでいます)『皇太子聖徳奉讃』『正像末和讃』は、八十五、六歳の時にまとめられたものです。



◇如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし





 釈尊のお勧めと、七高僧をはじめ無数の方々のお勧めにより、弥陀回向の信心をたまわる私たちです。釈尊は、この他力の信心をいただいた私たちを、「素晴らしいわが親友である」とたたえてくださいます。この釈尊のおこころをうかがいながら、信心をいただいた私たちの、阿弥陀如来をはじめ私を導いてくださった先師すべてに対する報恩の生活について、三時讃のまとめの一首、恩徳讃を解説していきます。



▼報恩の生活





 いままで讃えてきた三時讃のまとめとして恩徳讃があります(第五十九首)。
この一首は、もっとも親しまれているご和讃です。
原文は、『本尊色紙文』に
聖覚法印の言葉として
「つらつら、教授の恩徳を思へば、実に弥陀の悲願に等しき者か。
骨を粉にして之を報ずべし、身をくだきて之を謝すべし」
とあるのによられました。
親鸞聖人は、『尊号真像銘文』にこの文を解釈されて、恩師源空聖人のみ教えは、
阿弥陀仏のご本願と等しい、この恩徳をおもいて、骨を粉にし、
身をくだきてもその恩徳に報いるべきであると述べておられます。
原文では、直接、法然上人のお導きを讃えておられます。
しかし今このご和讃では、七高僧などお導きくださる先師すべてを師主知識として讃えられます。
 これだけのことを為したから、必ずそのお返しを期待するというのは、
報恩の考え方ではありません。
返しても返しても尽くしきれないというのが報恩の考え方です。  
 今、この世に命を賜り、苦しみ悩み多い人生を生きぬきながら、
その苦悩の中に深いみ仏の仏意を受け取らせていただきます。
死を迎え入れ、乗りこえる生き方が知らされるということは、
何と素晴らしいことであるか、ありがたいことであるか。
み教えに遇いえて、生死の苦しみを離れる身となり得たことは、
報じ尽くしきれない喜びであります。
 身を粉にするとか骨をくだくということは、出来ないことです。
そのような表現を通して返しきれないご恩を報じていく強い決意をあらわします。
 信心の人は、現生に十種の利益を賜ると説き、その中に「
智恩報徳の益」があります。
また、真仏弟子釈の引文に、有名な善導大師の『往生礼讃』の文があります。
 
   仏世はなはだもうあいがたし。人、真慧(しんね)あること難し。
    たまたま希有の法聞くこと、これまたもつと難し。みづから信じ、
    人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。
    大悲弘くあまねく化する。まことに仏恩を報ずるになる

とあります。
遇うこと難い、自らに信じ人に教えを伝えていくことも容易ならざる道であるが、
大悲のはたらきによってその法も伝えられる、
その法が伝えられるはたらきに力を尽くしていくことが、
仏恩を報ずることになりますと示されます。微力ながら
自信教人信の生き方が、
恩徳の生活の中心にあることが知らされます。
 聖人は『教行信証』を書かれ、和語の聖教や和讃をまとめられ、
懸命にお手紙を書かれ、み教えを伝えていくために力を尽くしておられます。
その生き方こそが報恩の生活であります。
 大いなるみ教えのはたらきに遇い、
そのみ教えに遇いえた喜びを伝えていくために力を尽くしていくということは、
私の生活そのものが問われてくることになります。
み教えに傷がつくような生活をしていては教えは伝えられません。
報謝の生活は、厳しい私の生き方を通して、それが完成されていくということでもありましょう。


                                    講義:浅井成海先生より


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