一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願


     佛言廣大勝解者 是人名分陀利華




【書き下し文】

一切善悪の凡夫人、
如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信すれば、
仏、広大勝解(こうだいしょうげ)のひととのたまへり。
この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。


【意 訳】

如来の本願を聞いて信ずるならば、
仏たちは「すぐれた法の体得者」とほめたたえ、
「泥の中に咲く白蓮華(びゃくれんげ)」と称賛してくださる。


【解 説】

▼諸仏にほめたたえられる人となる
「一切善悪(いっさいぜんあく)の凡夫人(ぼんぶにん)」~「この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく」までの四句は、
諸仏に賞賛されるという利益を示しくださいます。
 善人であろうと悪人であろうと、阿弥陀仏のご本願を信ずるならば、釈迦仏をはじめとしてあらゆる仏たちが、
「すぐれた法の体得者である」とほめたたえ、「白蓮華(びゃくれんげ)である」と称賛してくださるというのです。
 「広大勝解(こうだいしょうげ)の人」というのは、広大殊勝(こうだいしゅしょう)の領解を得た者という意味です。
広大殊勝の法をお聞かせいただいて、その法のあるがままを領解したから、「広大勝解のひと」といわれるのです。
すぐれた法の体得者といってもよいでしょう。
 私たちは、真実の智慧も慈悲もなく、いつも我欲本位で生きている煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)です。
尊いおみのりをお聞かせいただいても、依然として我欲は離れられませんし、煩悩もなくなりません。
そのような私ですが、本願を信じお念仏申す身になれば、「広大勝解のひとよ」、「白蓮華よ」と、仏たちがほめてくださるのです。

 蓮如上人の『御文章』に、
   それ、八万の法蔵(ほうぞう)をしるといふも、
   後世(ごせ)をしらざる人を愚者(ぐしゃ)とす。
   たとひ一文不知(いちもんふち)の尼入道なりといふも、
   後世をしるを智者(ちしゃ)とすといへり

と述べられています。
 世の中にはすばらしい才能や知恵を持つ方も多くおられます。ところが、この『御文章』では、
八万の法蔵といわれる釈迦仏の教法を知りつくしても、後世を知らない人を愚者とする。
たとえ一つの文をも知らない人であっても、後世(ごせ)を知る人を智者とするといわれています。
「後世をしる」というのは、今生だけに目を奪われるのではなくて、未来永遠につらぬく根本問題、
すなわち私自身がほんとうに救われてゆく道を知らせていただくことです。この「後世をしるを智者とす」ということから、
本願を信じ喜ぶ人を「広大勝解(こうだいしょうげ)のひと」とほめたたえてくださる意味がお分かりいただけると思います。 

■泥沼の中に咲美しい白蓮華にたとえて        
 「この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく」というのは、白蓮華(びゃくれんげ)のこと。
蓮華は高原の陸地には生じないで、泥沼の中に生じます。ことに白蓮華は美しい花です。その美しい白蓮華よ、とほめたたえてくださるのは、私たち凡夫が煩悩の泥の中にあって、仏のさとりの花を開くべき身になったことを、白蓮華にたとえてほめてくださるのです。
 『教行信証』「信巻」には、
  本願を信じてお念仏する人は、この人は甚だたぐい希であって、ほかに比べられるものはない。
  こういうわけで分陀利華(白蓮華)にたとえる。
  分陀利華(ふんだりけ)というのは人の中の好華(こうげ)と名づけ、
  また稀有(けう)の華とも名づけ、上上の華とも名づけ、また妙好華(みょうこうげ)とも名づける。
  この花は古来めでたい華といわれている。
  念仏する人は人の中の好人であり、妙好人(みょうこうにん)であり、
  上上人(じょうじょうにん)であり、稀有人(けうにん)であり、最勝人(さいしょうにん)である。

という意味のご文を示されています。

釈迦仏をはじめとして、あらゆる仏たちから、「広大勝解のひとよ」、
「白蓮華よ」とほめられるということは、実に尊いことであります。
 だからといって、自分は偉くなったと高上がりするのは誤りです。
親鸞聖人は、ご法義を深く味わえば味わうほど、そんな尊い法をいただいていながら、
私は依然として我欲をはなれることができず、名誉や利得を追い求めている。
お恥ずかしいことである、痛ましいことであると述懐(じゅっかい)されています。
  
   みのるほど 頭のさがる 稲穂かな

といわれますように、聞けば聞くほど謙虚になるのが真宗の法義であります。
                             聖典セミナー 灘本愛慈(なだもとあいじ)先生より

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