◇八万法蔵の章
この御文章は、知識・学問としての多くのお聖教に通じていることが浄土往生の要件なのではなく、信心が大切であることを明らかにされるもです。法然上人の「愚者になりて往生す」というお言葉を背景に、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、思いはからう心がなくなり、わが身を凡夫、愚者と自覚して、ただただ仏の仰せにまかせることが大切である、と諭される蓮如上人のおこころを味わわせていただきましょう。

※学習のポイント
 (1)愚者、智者との表現によって、蓮如上人は何を私たちに勧めておられるのでしょう。
 (2)「たすけためへ」の意味が理解できますか?

【註釈版本文】

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知(いちもんふち)の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしるたりといふとも、
一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。
されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、
ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
このゆゑにいかなる女人なりといふも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑(うたがい)あるべからざるものなり。
あなかしこ、あなかしこ。

【意 訳】
 さて、釈尊の説かれた多種多様な教えを知りつくしていても、
後生の一大事について心得がなければ、愚者といわねばなりません。
一方、文字も読めず、在家生活のままで仏門に入った女性や男性であっても、
後生の一大事について心得ていれば、智者というのである、といわれています。
ですから浄土真宗のこころでは、ことさらに多くの聖教(しょうぎょう)を読んでもの知りになっても、
一念の信心のいわれがわからないでは、むなしいのだと思ってください。
そこで、親鸞聖人のお言葉にも、
「すべての男性も女性も、阿弥陀如来の本願を信じなければ、まったくたすかるということはありません」と仰せになっています。
ですから、どのような女性でも、いろいろな雑行(ぞうぎょう)を捨てて一念に、阿弥陀如来を、
このたび来るべき後生のおたすけまちがいなしと、たより信じたならば、
十人は、十人、百人は百人とも、みな必ず阿弥陀如来の浄土へ往生できるのです。そのことを決して疑ってはなりません。
あなかしこ、あなかしこ。

◇その背景

 この一章は、いくらもの知りであっても信心がなければ愚かな者であり、もの知りでなくても信心の人を知恵ある者とする、
と述べている種々の書物に見られる古くからの言葉によって、信心の大切なことを勧めて、
すべての人が信心をめぐまれて救われることを明らかにし、その中でも、とくに、女性の救いが強調されています。
 その文章の構成をみますと、はじめに信心のないことを誡められ、後半は宗祖聖人のお言葉を引いて信心を勧められた、
と受けとれます。要は、智慧ある者のように振る舞うのではなくて、
愚者の自覚のうえに浄土真宗のみ法が味わえることを示してくださっているともいえます。
 ところで、私たちは、親鸞聖人によって浄土真宗が開かれた、といつも学んでいます。
その通りなのですが、親鸞聖人ご自身においては、浄土真宗は法然聖人が説いてくださった、
との自覚をいつも持っておられました。
    智慧光のちからより 本師源空あらはれて 
    浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ

と、ご和讃にありますし、 

    親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
    よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

と、法然聖人によって阿弥陀仏の本願のいわれをきかれて、信心をめぐまれ、
揺るぎなき喜びの人生を送られた親鸞聖人は、その気持ちをこめてあらわしておられるのです。
 さて、蓮如上人は、浄土真宗の教義のかなめを平易なお手紙の形式で著してくださいました。したがって、
御文章の中で、宗祖や法然聖人のお言葉がうかがえるのは当然のことといえます。
この第五帖第二通の趣意は、法然聖人の法語に、その裏づけがあることを、ここで考えておきます。
 すなわち、『一枚起請文』に、
     念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚禿の身になして、
     尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし

と示されています。また、親鸞聖人が師の法然聖人のご法語を記録された、といわれている『西方指南抄』の、
     聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて、極楽にむまると
の言葉にも、関連性がうかがえます。
 また、現存する親鸞聖人の御消息の中で、年月日の記されている最後のものである八十八歳の書簡では、
    さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、
    ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。としごろおのおのに申し候ひしこと、
    たがはずこそ候へ、かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。
    故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、
    ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、
    笑ませたまひしをみまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。

    いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。
とあって、三十五歳の親鸞聖人が、承元の法難によって流罪となられて以来、
ふたたびあうことのなかった法然聖人の「愚者になりて往生す」の言葉を、
「たしかにうけたまはり候ひし」と、八十八歳の書簡で書いておられることに、蓮如上人が注目されたことが、
この御文章制作の背景になっていると考えられます。もちろん、この御文章で蓮如上人が強調されたことは、
信心であります。浄土真宗においては、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、思いはからう心がなくなり
、仏の仰せにまかせたことを信心とするのです。
 ただ、何がどのように信じられるかのついて説かれたものに、二種深信があります。
善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』に出るのですが、そこで機の深信について、
    一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
    曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁
    あることなしと信ず

と書かれています。すなわち機の深信とは、機すなわち私のありのままの姿は、かぎりない過去から迷いつづけ、
とてもみずからの力でこの世界から出るべき縁のない罪悪生死の凡夫であることを深く信ずる、ということです。
 したがって、阿弥陀如来の本願を聞くところに、お互いが凡夫と知らされ、愚者と気づかされるのであります。
 さらに善導大師は、法の深信について、
    二つには、決定(けつじょう)して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は
    衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく慮(おもんばか)りなくかの願力に乗じて、
    さだめて往生を得と信ず

と示されています。
ここで法の深信とは、阿弥陀如来は、機の深信で明らかにされた人間を救おうとの願いによって
はたらいてくださっているのであるから、それを疑わず、はからいを捨てて信順する、ということです。
 この二種深信を念頭にして、この御文章を再読するとき、蓮如上人が言おうとしておられることは、
宗教的姿勢としての愚者の自覚の重要性にある、とみることができます。

◇門徒もの知らず

 世間一般に、「門徒もの知らず」の言葉が、いろいろな意味をこめて使用されています。
そこでいま『国語辞典』を開いてみますと、「浄土真宗では、ひたすら弥陀の名号を称えることをすすめるばかりで、
他のことは一切顧みることなく無知である、とあざけっていう」と記述されていました。したがってこの言葉は、
他宗の人びとが浄土真宗の門徒に対して責めとがめる意味で積極的に使った、と考えられます。
 ところで、江戸時代の儒者、太宰春台の『聖楽問答』には、
    弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず。
    如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術符水を用ひず

との記述があります。すなわち、浄土真宗の門徒は、どのような不幸においても他の宗教に目を向けず、
迷信俗信や呪術を遠ざけたことをいうのです。
 それは、蓮如上人の御文章の、
    その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、
    自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、
    たまわろきじりきなんどといふたごころのなき人を、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、
    弥陀はかならず遍照のこうみょうをもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり

にも表現されています。ここには、親鸞聖人がご和讃で示された、
     かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
     天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす

さらに、
    かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
    仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

のような悲歎の鮮烈さはうかがえないとしても、そのおこころを受けた御文章である、ということができます。
 現代に生きる人々は、情報化社会の恩恵をうけて、確かに豊かな知識を持つにいたっています。
ところが、数字の四や九を忌み嫌う、丙午の出産にこだわる、方角が気にかかる、
カレンダーの大安や友引、仏滅に目を注ぐ等が、多くの日常の中に、さらに浸透しているように思えます。
その点では、「もの知り」になって一層人間は弱くなった、ともいえましょう。
 先ほどの親鸞聖人のご和讃とあわせて、『教行信証』では『本願薬師経』を引用されて、
     浄信の善男・善女などは、一生涯ほかの天につかえてはならぬ。
     ‥‥‥また世間の悪魔・外道・妖術つかいを信じて、道理に合わない禍福のことをいい、
     そして恐怖動揺を生ずるであろう。心がみずから正しくなく、ものごとを卜い問うて禍をまねき、
     さまざまの衆生を殺すであろう。神明に祈願し妖怪を呼んで、福を求め、長生きしたいと願うであろう。
     しかもこれを得ることができない。愚かに惑って邪な道を信じ、まちがった見解をもち、
     遂には天寿を全うせずに死んで、地獄に入り、出ることができない

と書かれている文を目にするとき、まことに厳しい指摘といわれずにおれません。
「世間でやっているから」とか「まわりの人が言うから」と、安易に取り込んでしまうことは、
私たちの一度限りの人生を悔いなく生きることにならないでしょう。
そのような生き方は、「世渡り」ではなくて「世流れ」のむなしい人生として終わることになりかねません。
 この御文章の冒頭にある「八万の法蔵をしる」ことがいけないのではなくて、
たんに知識としてとどまっていることに問題があることを知っていただきたいのです。

◇「後生たすけたまへ」について

 原文では、「このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は」とあるのを、
通常は「ですから、どのような女性でも、いろいろな雑行を捨てて一念に、阿弥陀如来よ、
このたびの来たるべき後生をおたすけください、と深くおたのみ申しあげる人は」とい訳すればよいし、
その方が文脈もよく通ります。ところが、複雑とおもえる訳を、どうしておこなったかといえば、
この御文章の中で「後生たすけたまへとふかくたのみまうさん」と、
浄土真宗の信心をわかりやすく蓮如上人が示して下さっているのに、
文字通り意訳して、「どうかお助けください、と阿弥陀仏にお願いすることである」
と理解することになれば、かえって蓮如上人の意図に反し、親鸞聖人のお心にそむくことになるからです。
 まず、「たのむ」については、第二十四号(白骨の章)でも説明していますので、
ご覧になってください。もう一度簡単にいえば、「たのむ」には、
たのみにする、信頼する、あてたよりにする、
お願いする、請い求める、の二通りの使い方があります。
そのうち、現代用語としての「たのむ」の用例は、②の方が一般的といえます。
しかし、蓮如上人の用例は、①の意味ですから、私たちには間違う危険性が高いといえるのです。
 つぎに、「たすけたまへ」については、『蓮如上人御一代記聞書』第一八八条に、
     聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。
     ゆゑに、たのむといふことば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとためといふことをしらざしき。
     しかれば前々住上人の御代に『御文』を御作り候ひて、「雑行をすてて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」
     と、あきらかにしらされ候ふ。しかれば御再興の上人にてましますものなり

と記されています。したがって「たすけたまへ」とは、どのようにたのみにするのか、
その「たのむ」の内容である、といえるのです。そこでこの言葉も、先述の②の意味で考えるのはなくて、
許諾(先方の言い分を許し承諾する)のことし、必ずたすける、
との本願召喚の勅命をうけいれて仰せの通りに信順するすがたをあらわしているのです。
西本願寺第十九代本如上人は、三業 惑乱の時代にあって正意の安心を明らかにされるために出された御消息の中で、
    弥陀をたのむといふは、他力の信心をやすく知らしめたまふ
    教示なるがゆゑに、たすけたまへといふは、ただこれ大悲の
    勅命に信順する心なり

と示されるのも、この意味として理解することができます。
                       
                                                       清岡 隆文 先生
                                                                   ホーム