【本文】

解脱の光輪きはもなし  光触かぶるものはみな


有無をはなるとのべたまふ  平等覚に帰命せよ


【現代語訳】
                                                                       ホーム
 束縛から解き放ってくださる如来の光明は、いつの時代にも、どんなところでもはたらいていてくださっている。
この光明にふれるものは、有れば有で苦しみ、無ければ無いといって悲しむことから解放されると、『讃阿弥陀仏偈』には述べられている。
私たちに平等をさとらせてくださる阿弥陀仏に帰命してたてまつれ。

【語  釈】

①解脱  古写本の左訓に「げだつといふは、さとりをひらき、ほとけになるをいふ。
 あわらがあくごふ、ぼむなうを、あみだの、おむひかりにて、くだくといふこころなり」とある。
 解脱とは種々の意味があるが、今は左訓のように、悪行、煩悩の執着をはなれて真理をさとり、仏となることで、涅槃と同じ意味。
②きはもなし  和讃に「解脱の光輪きはもなし」と述べられている。「きはもなし」とは無返際の光ということ。
 この無辺光には、二つの意味が含まれていると考えられる。一つにはきわほとりがないという意味で、
 三世十方世界を、あまねく照らすという意味。
 二つには、一方にかたよらない中正な光ということ。それでかたよった執着がやぶられる。
③有無  有無とは有の見、無の見の二つの誤った考え方。
 有の見とは、人間の死後も、生前と同じ霊魂が変わらず存在し続けると、
 個人や世界の存在(有)に執着した考え方で、無の見と他の存在が無に帰するととらわれるのが無の見である。
 有の見も無の見も、ともに正しいものの見方とはいえない。それで「有無をはなる」の左訓に「じゃけんをはなるなり」とある。
④平等覚  すべての執着をはなれて一切を平等にみる智慧の仏、阿弥陀如来のこと。古写本の左訓に「あみだは、
 ほふしんにてましますあひだ、びゃうどうかく、というなり」とある。
 阿弥陀仏は一切の現象を貫く平等の法、即ち法身をさとった仏であるから平等覚という。

【講  読】 


 前項の一首では、「智慧の光明はかりなし」と阿弥陀仏の光明は、量りなき、無量の光明であると讃嘆されました。
「無量光」とは、十劫の昔から未来永劫尽きることのない光明ということです。
 これをうけて、「げだつのこうりんきはもなし」とうたわれたのです。
如来のおさとりは、何ものにも束縛されない広々とした世界であり、このさとりから私たちの束縛を解く光明が放たれています。
それを「解脱の光輪きはもなし」と詠じられています。如来の光明はきわもない、無辺の光明、無辺光と讃えられています。
 無辺光とは、日本とかアメリカとかヨーロッパとか、所を嫌わず、どこでも照らすということであり、
また善人であれ悪人であれ、男女、優劣、好き嫌いと分け隔てのない、一返にかたよらない光明ということです。
ですから無辺光とは、一切衆生一人としてもれることなく、お照らしくださる光明です。
 「光触かぶふものはみな、有無をはなるとのべたまふ」とは、如来の光明にふれるものみな、
心中の計らいが融かれ計らいをはなれさせていただく、この計らいのことを「有無」と述べられています。
 有無とは、私たちの迷いのあり方すべてをこの二文字で言い表されているのです。
有無とは、辞書では、有に執着する有見と、無に執着する無見とを合わせた言葉で、ともに邪見であると述べられています。
私たちの日常は、自分と他人、生と死、幸と不幸、善と悪、正と邪、優と劣、好きと嫌い、
信心と疑心というように、ものごとを分けていずれか一方に執着しています。
ですから、一方にかたよったものの見方です。このようにものごとを分けて、
いずれか一方に執着するかたよったものの見方を「有無」といわれているのです。
 阿弥陀仏は、「有無」をはなれた仏さまです。
「有無」をはなれた仏さまの無辺光に照らされ、私たちも「有無」をはなれさせていただくのです。
 「平等覚に帰命せよ」とは、無辺光でお照らしくださる阿弥陀仏は、私たちに平等のさとりをお与えくださる仏さまです。
自他、生死、禍福、信疑と二つに分けるのは人間の計らいです。信も疑も、自分で疑いをなくし、自分で信じ込んだものなら計らいです。
自分の考えをもとにしたものは計らいです。阿弥陀仏は善であれ悪であれ、平等にたすけるぞ、とよびかけてくださいます。
 わが身の計らいの姿に気づかされ、平等覚を仰がざるを得ません。
                                                                     黒田覚忍先生
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