【本文】 解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ |
前項の一首では、「智慧の光明はかりなし」と阿弥陀仏の光明は、量りなき、無量の光明であると讃嘆されました。
「無量光」とは、十劫の昔から未来永劫尽きることのない光明ということです。
これをうけて、「げだつのこうりんきはもなし」とうたわれたのです。
如来のおさとりは、何ものにも束縛されない広々とした世界であり、このさとりから私たちの束縛を解く光明が放たれています。
それを「解脱の光輪きはもなし」と詠じられています。如来の光明はきわもない、無辺の光明、無辺光と讃えられています。
無辺光とは、日本とかアメリカとかヨーロッパとか、所を嫌わず、どこでも照らすということであり、
また善人であれ悪人であれ、男女、優劣、好き嫌いと分け隔てのない、一返にかたよらない光明ということです。
ですから無辺光とは、一切衆生一人としてもれることなく、お照らしくださる光明です。
「光触かぶふものはみな、有無をはなるとのべたまふ」とは、如来の光明にふれるものみな、
心中の計らいが融かれ計らいをはなれさせていただく、この計らいのことを「有無」と述べられています。
有無とは、私たちの迷いのあり方すべてをこの二文字で言い表されているのです。
有無とは、辞書では、有に執着する有見と、無に執着する無見とを合わせた言葉で、ともに邪見であると述べられています。
私たちの日常は、自分と他人、生と死、幸と不幸、善と悪、正と邪、優と劣、好きと嫌い、
信心と疑心というように、ものごとを分けていずれか一方に執着しています。
ですから、一方にかたよったものの見方です。このようにものごとを分けて、
いずれか一方に執着するかたよったものの見方を「有無」といわれているのです。
阿弥陀仏は、「有無」をはなれた仏さまです。
「有無」をはなれた仏さまの無辺光に照らされ、私たちも「有無」をはなれさせていただくのです。
「平等覚に帰命せよ」とは、無辺光でお照らしくださる阿弥陀仏は、私たちに平等のさとりをお与えくださる仏さまです。
自他、生死、禍福、信疑と二つに分けるのは人間の計らいです。信も疑も、自分で疑いをなくし、自分で信じ込んだものなら計らいです。
自分の考えをもとにしたものは計らいです。阿弥陀仏は善であれ悪であれ、平等にたすけるぞ、とよびかけてくださいます。
わが身の計らいの姿に気づかされ、平等覚を仰がざるを得ません。
黒田覚忍先生