『親鸞伝絵』   
報徳寺婦人部第1回例会 平成24年7月21日

『親鸞(しんらん)伝(でん)絵(ね)』は、第三代覚如上人によってまとめられた絵巻物ですが、上人は何度か加筆・修正を加えられており、代表的なものでは、永仁(えいにん)3年(一一九五) の奥書をもつ「琳阿本(りんあぼん)」(本願寺蔵)と「高田本」(専修(せんじゆ)寺蔵)、そして覚如上人(かくによしようにん)晩年の康永(こうえい)2年(一三四三)に制定された「康永(こうえい)本」(真宗大谷派蔵)の三本があげられます。
 覚如上人による「親鸞伝絵」の初稿本は焼失して伝わりませんが、真宗高田派本山専修寺に全十二段で構成されたもの(高田専修寺本)があります。この高田本を元に報徳寺婦人部では平成24年度から親鸞聖人のご生涯を『伝絵』に描かれた主な場面を詳細に味わっていきます。

①「出家学道」(上巻第一段)
 ―慈円のもとで出家得度す
②「吉水入室」(上巻第二段)
 ―法然聖人の門下に入る
③「六角夢想」(上巻第三段)
―六角堂で夢告を受ける
④「連位夢想」(上巻第四段)
―連位坊の夢想
⑤「選択本願」(上巻第五段)
―『選択集』を伝授される
⑥「信行両座」(上巻第六段)
―信と行の両座に分かつ
⑦「信心諍論」(上巻第七段)
 ―信心をめぐる諍論
⑧「入西観察」(上巻第八段)
 ―聖人は如来の化身いう夢
⑨「師資遷謫」(下巻第一段)
―法然聖人とともに流罪
⑩「稲田興法」(下巻第二段)
 ―関東の稲田で教化する
⑪「弁円済度」(下巻第三段)
 ―板敷山の修験者を教化
⑫「箱根霊告」(下巻第四段)
 ―箱根根現の神宮より餐応
⑬「熊野霊告」(下巻第五段)
―平太郎の熊野詣で
⑭「洛陽遷化」(下巻第六段)
 ―親鸞聖人のご遷化
⑮「廟堂創立」(下巻第七段)

●主な場面
①「出家学道」(上巻第一段)
 ―慈円のもとで出家得度す
※承安三年(一一七三)にご誕 生になった聖人は、九歳の春、 伯父日野範綱に伴われ、慈円 和尚のもとで出家得度されます。
③「六角夢想」(上巻第三段)
―六角堂で夢告を受ける
※比叡山で二十年の修行ののち、山を下りた聖人は、聖徳太子ゆかりの京都の六角堂に籠もられ、救世菩薩から夢告をお受けになる。
④「連位夢想」(上巻第四段)
―連位坊の夢想
※聖人が八十四歳の時、お弟子の連位坊が、聖徳太子が親鸞聖人のことを阿弥陀仏の化身として礼拝したという夢を見 ました。
⑤「選択本願」(上巻第五段)
―『選択集』を伝授される
※法然聖人のお弟子になられた聖人は、吉水の草案で、法然聖人の主著『選択本願念仏集』を伝授され、肖像画を写すことを許されました。
⑥「信行両座」(上巻第六段)
―信と行の両座に分かつ
※吉水の草庵で、信の一念で往生が定まるのか、行を励むことによって往生が定まるのか、という信の座と行の坐が設けられ、親鸞聖人や聖覚法 印、法然聖人などの数人が信の座につきました。
⑧「入西観察」(上巻第八段)
 ―聖人は如来の化身いう夢
※聖人七十歳の時、五条西洞院でお弟子の入西坊が聖人に肖像画の制作を願い出て、絵師の定禅法橋が親鸞聖人をみて、夢に見た「本願の御 房」と驚きました。
⑩「稲田興法」(下巻第二段)
 ―関東の稲田で教化する
※承元の法難によって越後に流罪となった聖人は、赦免後、関東へ向かわれ、稲田の草庵を中心に布教伝道にたずさわれます。
⑪「弁円済度」(下巻第三段)
 ―板敷山の修験者を教化
※板敷山の山伏弁円は、聖人を殺害しようと稲田の草庵を訪れますが、聖人の教化によってお弟子になります。
⑭「洛陽遷化」(下巻第六段)
 ―親鸞聖人のご遷化
※弘長二年十一月二十八日、聖人は、弟尋の善有の善法坊でご往生されました。
⑮「廟堂創立」(下巻第七段)
 ―大谷本廟の創立
※聖人がご往生されて十年後の文永九年(一二七二)、大谷本廟が創建されました。


●研修のポイント
  『親鸞伝(でん)絵(ね)』に描かれた親鸞(しんらん)聖人(しようにん)の姿を中心に服装・表情・登場する人物・建物・樹木など場面を詳細に見ていきながら、それぞれの時期の聖人(しようにん)の立場や様子を探っていきたいと思います。

出家学道の段 高田本 上巻第1段 専修寺蔵

『親鸞伝絵』から詞書(ことばがき)を抜き出した『御伝鈔(ごでんしょう)』には、「九歳の春のころ、阿伯従(あはくじゆ)三位(み)範(のり)綱(つな)卿(きよう)、前大僧正(さきのだいそうじよう)(慈円(じえん))の貴坊(きぼう)へあひ具し(ぐし)たてまつりて、鬢髪(びんぱつ)を剃除(ていじよ)したまひき」とあります。
 これによると、親鸞聖人は九歳の養和(ようわ)元年(一一八一)に、伯父(おじ)の日野(ひの)有(あり)範(のり)に伴われて慈円(じえん)の住坊において出家されたことがわかります。左の場面をみると住坊の門前には、牛舎やお伴の者と一処に桜の花が描かれています。これは、聖人が出家された季節が「春」とされているため、その季節感を表したもののようです。
出家の様子について、住坊(じゆうぼう)の中に、慈円(じえん)の前で朱の柄の入った直垂(ひたたれ)を着て座る親鸞聖人描かれています。その左右には、剃刀(かみそり)を手にして髪を下ろしている僧と紙燭(しそく)を手にした僧がいて、まさに剃髪(ていはつ)が行われていることが見て取れます。聖人の脇には、剃髪(ていはつ)後に顔や手を洗うために、左右二本ずつの取っ手が付いた黒い角(つの)盥(だらい)が準備されています。また、聖人(しようにん)の後方で立(たて)烏帽子(えぼし)、を付け、直衣(のうし)を着て座っているのが、聖人を伴ってきた日野(ひの)範(のり)綱(つな)です。

黄色の色(しき)衣(え)と袈裟(けさ)を着けた慈円(じえん)は、天台僧であるため管僧として描かれ、襟(えり)の後ろが三角に尖っ(とがつ)た僧網襟を立てた衣を着ています。これに対して親鸞聖人はまだ俗人であるため、当時の子どもの着衣姿に描かれています。聖人と慈円(じえん)の距離が少し空き,剃髪(ていはつ)を取りはからう僧も三人になっています。中庭とも思われるところに、赤い花が咲いた木が見えます。


覚如上人26歳の永仁3年(1295)の奥書をもつ「高田本」には、図絵についての注記が記されている。これは上人の自筆である。画面左の慈円には、没後に贈られた名である、「慈鎮和尚(じちんかしょう)」と注記されている。

 九(く)歳(さい)という若さで出家(しゆつけ)する親鸞聖人は、父の日野(ひの)有(あり)範(のり)ではなく、養父(ようふ)となっていた伯父(おじ)の範(のり)綱(つな)に伴われて慈円(じえん)の住坊を訪ねられました。父に養育されなくなった聖人(しようにん)が、このとき出家(しゆつけ)することになった理由は定かではありませんが、そこには何らかの政治的な事情が影響しているともいわれています。

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