■大聖世尊章
 「当たり前だと思っていたけど、そうではなかった!」。このように思われた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。「大聖世尊章」では、「人間の世界に生まれている」、「仏法を聞くという縁にあっている」という当たり前だと思っていることが、実は得がたく、尊いものであることが示されています。では、なぜそのようにいえるのでしょうか。


【註釈版本文】
それ、つらつら人間のあだなる体(てい)を案(あん)ずるに、生(しよう)あるものはかならず死に帰(き)し、
盛んなるものはついに衰(おとろ)うるならいなり。さればただいたずらに明(あ)かし、いたずらに暮(くら)して、
年月を(ねんがつと)送るばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし。
このゆえに、上(かみ)は大聖世尊(たいしようせそん)よりはじめて、下(しも)は悪逆(あくぎやく)の提婆(だいば)にいたるまで、
のがれがたきは無常(むじよう)なり。しかれば、まれにも受けがたきは人身(にんじん)、あいがたきは仏法(ぶつぽう)なり。
たまたま仏法にあうことを得(え)たりというとも、自力修業(じりきしゆぎよう)の門(もん)は末代(まつだい)なれば、
今の時は出離生死(しゆつり)のみちはかないがたきあいだ、弥陀如来(みだによらい)の本願(ほんがん)にあいたてまつらずは、
いたずらごとなり。しかるにいますでに、われら弘願(ぐがん)の一法(いつぽう)にあうことを得(え)たり、このゆえに
、ただねがうべきは極楽(ごくらく)浄土(じようど)、ただのむべきは弥陀如来(みだによらい)、
これによりて信心決定(しんじんけつじよう)して念仏申(ねんぶつもう)すべきなり。しかれば、
世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)とばかりとなうれば、
極楽浄土(ごくらくじようど)に往生(おうじよう)すべきようにおもいはんべり。それはおおきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と申す六字の体(たい)はいかなるこころぞというに、
阿弥陀如来(あみだによらい)を一向(いつこう)にたのめば、ほとけ その衆生(しゆじよう)をよくしろしめして、
すくいたまえる御(おん)すがたを、この南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の六字にあらわしたまうなりとおもうべきなり。
しかればこの阿弥陀如来(あみだによらい)をばいかがして信じまいらせて、
後生(ごしよう)の一大事(いちだいじ)をばたすかるべきぞなれば、なにのわずらいもなく、
もろもろの雑行雑善(ぞうぎようぞうぜん)をなげすてて、一心一向(いつしんいつこう)に弥陀如来(みだによらい)をたのみまいらせて、
ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生(しゆじよう)を
光明(こうみよう)を放(はな)ちてそのひかりのなかに摂(おさ)め入れおきたまうなり、
これをすなわち弥陀如来(みだによらい)の摂取(せつしゆ)の光益(こうやく)にあずかるとは申すなり。
または不捨(ふしや)の誓約(せいやく)ともこれをなづくるなり。
かくのごとく阿弥陀(あみだ)如来(によらい)の光明(こうみよう)のうちに摂(おさ)めおかれまいらせてのうえには、
一期(いちご)のいのち尽(つ)きなばただちに真実の報土(ほうど)に往生すべきことその疑いあるべからず、
このほかには別の仏を(ぶつと)もたのみ・またよの功徳善根(くどくぜんこん)を修してもなににかわせん、
あらとうとやあらありがたの阿弥陀(あみだ)如来(によらい)や、かようの雨山の御恩をばいかがして報(ほう)じたてまつるべきぞや。
ただ南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と声にとなえて、
その恩徳(おんどく)をふかく報尽申(ほうじんもう)すばかりなりとこころうべきものなり。 あなかしこ あなかしこ。

【意 訳】
 人間のはかないようすをよくよく考えると、命あるものはかならず死にいたり、
盛んなるものは最後には衰(おとろ)えてしまうのが世のならいです。それなのに、むだに日を過ごしているのは嘆(なげ)かわしいことです。
 釈尊(しやくそん)から五逆十悪(ごぎやくじゆうあく)の提婆(だいば)に至るまで逃れることのできないのは、無常のことわりです。
私どもは、受けがたい人間に生を受け、聞きがたいみ仏の教えに遇(あ)うことができましたが、
今は末法(まつぽう)の世ですから、自力の修業によっては迷いの世界を出ることができず、
ただ阿弥陀如来(あみだによらい)の本願によるしかありません。今、その教えに遇(あ)うことができたのですから、
浄土を願い如来をたのみ、信心を決定(けつじよう)して念仏を申すべきです。
しかし世間の人は、信心がなくても、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と念仏しさえすれば浄土往生ができるように思っていますが、
それは大きな心得違いです。
 南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の六字とは、阿弥陀如来(あみだによらい)をひたすらたのみたてまつる人を、
如来はお救いになるをいういわれをあらわされているのです。ですから自力にたよることをやめ、
一心(いつしん)に阿弥陀如来をたのみ、二心(ふたごころ)なくおまかせするならば、
如来はその人を光明を放っておさめとってくださるのです。このことを摂取(せつしゆ)の光益(こうやく)といい、
不捨(ふしや)の誓益(せいやく)ともいうのです。このように阿弥陀如来の光明におさめとられているのですから、
この世の命が尽きたら、ただちに浄土に往生することは疑いありません。このほかに別の仏をたのみ、
また他の行や功徳(くどく)をおさめても、なんのやくにもたちません。
 ああ、なんと尊くありがたい阿弥陀如来でしょう。その広大なご恩に報いるには、
ただ南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と念仏して、仏恩(ぶつとん)を報じるばかりと心得るべきです。

※学習のポイント
 (1)人間の世界に生まれ仏法にあわせていただいていることの不思議を、改めて味あわせていただきましょう。
 (2)信ずるということは、教えを通して如来さまのお心にであわせていただくということです。


■「大聖世尊章」の概要


 今回は『御文章』第三条四通「大聖世尊章」について学びます。
「大聖世尊」とはお釈迦様のことですが、本章がとくにお釈迦さま中心の内容というわけではありません。
特徴的なお言葉をとらえて章名にしているわけです。
 本章の構成を示せば次の通りです。

1、無常のさまを嘆ずる(それ、つらつら~)
2、教えにあうべきことを示す(しかればまれ~)
3、浄土真宗の教えを示す
 (1)無信但称の異議を遮する(しかれば世の~)
 (2)当流の正義を述べる
  ①六字の名号を釈す(されば南無阿弥陀~)
  ②安心(信心)を示す(しかれば、この~)
  ③信後の称名を示す(かやうの雨山~)


右の構成を一覧しても窺われますが、この『大聖世尊章』は『御文章』の総集編とでも言うべき、体系的な内容となっています。
このうち「3、浄土真宗の教えを示す」にあたる部分では、六字の名号のいわれ、
信心正因・称名報恩の宗義という浄土真宗の教えの綱要が、簡潔明瞭に示されております。
これまでに読んできました『御文章』のなかでも、すでに何度か出てまいりました。
 また注目されるのは、本章が無常を説くところから始められているところです。
無常を説く『御文章』と言えば、「白骨章」が有名ですが、それ以外にも少なくありません。
『御文章』の特徴といってもよいでしょう。本章では、無常を通して、
いま人間に生まれ仏法にであわせていただいているという事実が、
いかに得がたく尊いものであるかということが、わかりやすく教えられています。

■受けがたきは人身


 「青い鳥」というフランスの童話があります。幸せの青い鳥を探して二人の兄弟チルチルとミチルがいろいろな世界を旅しますが、
結局、その鳥は自分の家の鳥かごに入っていたという結末で、ご存じの方も多いかと思います。
この話は、目の前にある幸せはなかなか見ずらい、目の前にあることは「当たり前」と受け取って、
その意味を見過ごしがちであるという、人間のありさまを教えています。
 蓮如上人がここで「まれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり」と仰っておられることも、
このお話に通じるところがあるでしょう。人間としていま生をうけていること、仏法を聞く縁にあっていること、
これらを当たり前と捉えがちな私たちに対して、いまの縁がいかにめったにないものであるか、
そしていまの命がいかにはかなく過ぎゆくものであるかを教えておられます。
 たまにテレビの番組などで、「あなたの前世は~です」といった霊視をする方が登場されますが、
見ているとどうも、人間の前世は人間であるというのが普通のようです。しかし仏教では、
「人間に生まれる者は爪の上にわずかな土のようにごく希であり、
三悪道に墜ちる者は十方の世界にある土ほども多い」と教えています。
そして、人間に生まれることの貴重さが繰り返し強調されるのは、
人間の世界には「仏法にあい得る縁の整った世界」であるという、大切な意味があるからです。
地獄や餓鬼の世界は、激しい苦しみの連続で、教えを聞く心の余裕がありません。
それではたとえ仏法が目の前にあっても、であうことはできません。
 では、天の世界はどうでしょうか。源信和尚は「往生要集」に、須弥山の頂上にある忉利天を挙げて、
「怪楽極まりなしといへども、命終の時に臨みて五衰の相現ず」と言われています。
天の世界は、快楽の極まりない世界です。それは裏を返せば、いやなものを見ないで生活できる世界です。
しかし、老・病・死などの苦がないわけではありません。隠されているのです。
そして、苦しみが隠されているから、仏法を求める心がおこってこないのだといわれています。
ちょうど、お釈迦さまの青年時代に、何とかお釈迦さまの出家を防ごうとしたエピソードが想起されます。
 なお天の世界では、隠されていたその苦しみは、最後に一度にやってくると言います。
その時がくると、家族も友人もみな離れていってしまい、助けてくれる者はなく、一人で悲嘆に暮れるばかりである。
地獄のさまざまな苦しみさえも、その時に味わう苦しみに比べれば、十六分の一にも及ばないと言われています。
 このように見ますと、人間の世界というもののもつ意義がおのずと明らかになってきます。
人間の世界は、四苦八苦に代表されるさまざまな苦しみに満ちています。
しかしその苦しみを、ただの苦しみで終わらせるのではなく、
仏法にであう機縁として意味あるものに転換していくことのできる世界であるというのです。
源信和尚の作と伝えられる『横川法語』には、そこのところを
「世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生まれたることをよろこぶべし」と教えられています。


■弘願の一法にあう

 このたびの『御文章』では、「受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり」というところから、
さらに仏法のなかの聖道門・浄土門の区別を出されて、
「しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり」というところへと絞られています。
末代の私たちにおいては、この生死輪廻の世界を出離していくことのできる教えは、仏法のなかでも弘願の一法、
すなわち、いますでにあうことを得ている浄土真宗の教えであるといわれているのです。
 ここで蓮如上人は「弘願の一法にあうことを得たり」という表現をされています。
教えにあう、本願にあうといういい方は、「本願力にあいぬれば」のご和讃をはじめ、
親鸞聖人も好んで用いられるもので、『一念多念証文意』に「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」
(「まうあふ」は「あふ」の謙譲語で「あいたてまつる」という意)と釈されていますように、「信ずる」の同意語です。
しかし「信ずる」ということを「あう」とも言われるところに、大事な意味があるように思います。
 「あう」という言葉は普通、人と人とが顔を合わせたときに使う言葉です。
ですから、大根にあうとか、人参にあうとはあまり言いません。大根との間には、人格的なふれあいがないからです。
ここから考えれば、浄土真宗の教えを信ずることが、教えに「あう」と言われるのは、
信ずることが、阿弥陀如来という仏さまとのであいを意味しているからではないでしょうか。
もちろんそれは、「昨日駅前に阿弥陀さまが歩いておられた」というような物理的なあい方ではありません。
しかし世の中には、物理的なであいはなくても、遠く隔たっていても、その人の心にであうということがあります。
それは、言葉を通してであうというあい方です。
 戦後、日本初の南極観測隊が派遣された時、ある隊員の妻が夫に年賀電報を送りました。
そこには「アナタ」とだけ書かれていたそうです。当時、電報は庶民にとって高価なものでした。
隊員の妻は、このたった三文字の中に、自分の思いを託したのです。
わずかに三文字ではありますが、その電報を受け取った隊員は、きっとそこに込められた妻の心に、
日本方遠くはなれた南極の地で、確かに「であった」に違ありません。
 浄土真宗の教えを信ずるということは、南無阿弥陀仏の名号となって、
またお釈迦さまの御説法となってここに届いてくださっている、阿弥陀如来のお心にであわせていただくということです。
私という存在を丸ごと包み込んでくださる阿弥陀如来の智慧と慈悲のお心にであわせていただくから、
もはや往生成仏は必定のこととなるのであり、これを信心正因といいます。
 お念仏申すことは尊いことですが、とにかくお念仏したら往生できるだろうという受けとめは、自分の行為ばかりを問題としていて、
称えているお念仏そのものに込められた如来さまのお心をいただこうという態度ではないでしょう。
それでは蓮如上人は、
    ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきようにおもひはんべり。
    それはおほきにおぼつかなきことなり

と言われているのです。そして六字の名号に込められた如来さまのお心を示されながら、
そのお心を素純に聞き信ずる信心のありさまを懇切の教えられているのです。