【本  文】


仏光測量なきゆゑに  難思光仏となづけたり


諸仏は往生嘆じつつ  弥陀の功徳を称せしむ

【現代語訳】

 阿弥陀如来の光明は、ただ仏でなければ十分知り通すことのできないほど広大で、
われわれ迷いの衆生に知りつくすことができないので、難思光仏と名づけられた。
十方諸仏は、衆生の往生をすばらしいこととほめながら、衆生を往生させる弥陀の功徳を称讃される。

【語  釈】

①測量なき  はかることのできない意。測量とは、深浅、広狭、軽量、多少などをはかること。
②難思  思いはかることができないこと。難思という語に二つの意味がある。
 一つは如来のさとっておられる真理そのものは、衆生に思いはかることができないという意味。
 二つは阿弥陀如来は罪悪深重の最下の凡夫を、本願を信ずる一つで、一つで、最高に往生させるという。今は後の意味である。
③難思光  光明のはたらき。清浄光、歓喜光、智慧光、不断光の四つは、衆生に信心を得させるはたらき。
 それに対して、難思光は衆生に往生を得させてくださるはたらきである。

【講  読】

 この一首は、次の「神光の離相をとかざれば、無称光仏となづけたり、因光成仏のひかりをば、
諸仏の嘆ずるところなり」とある一首とで、阿弥陀仏の光明は、不可思議の光明であると讃嘆されます。
 仏教が中国に伝えられたとき、さとりの智慧や仏力の勝れていることを表現するために新しく作られた言葉が
「不可思議」や「不思議」であります。ですから、これらの言葉はともに如来の徳は心で思うことも、
口で議論し説くこともできないほど勝れたものであることを示しています。
 そこで、今の一首は、心に思いはかることもできない「難思光」であることを讃嘆され、次の一首では口で詳説し、
説き表すこともできない「無称光」の徳を讃嘆されます。
 「仏光測量なきゆゑに、難思光仏となづけたり」とは、『大経』の「如来の智慧海は、深広にして涯底(がいてい)なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかにさとりたまへり」の意によって讃嘆されたものです。 
 如来の智慧の光明海は、底なしに深く、広さはてしないゆゑ、私たちの心も言葉も絶えはてた難思光仏と仰がれるのです。
讃嘆はそのまま帰依の表れでしょう。帰命の心が讃嘆となって表れたものでしょう。
 私たちは、ともすると人間の知恵を尺度のして如来をとらえようとします。
けれども、それは知らず知らずのうちに、如来よりも人間の智慧の方が確かな依りどころとしていることになります。
人間の智慧の尺度ではかられたものは、真実の帰依処ではない。
真実の帰依処は、人間相対の尺度ではかられないと身に沁みて分からせていただいて、
はじめて絶対無限の智慧を仰がせていただくことができるのです。「難思光仏」と讃えられるのは、このような心を表せているものでしょう。
 「諸仏は往生嘆じつつ、弥陀の功徳を称せしむ」とは、十方諸仏方が衆生の浄土往生を讃嘆して、
これもひとえに阿弥陀如来の難思光の功徳によりものと称賛したまうと詠じられます。
これは『大経』の「往生者は、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに嘆誉して、その功徳を称せられん」とあるものによっています。
 しかし、『大経』では、すでに往生をおとげている人びとも、今往生した人もともどもに弥陀の難思光の功徳によって往生したものであると、
弥陀の功徳を讃嘆されるものと思われます。
                                                                    黒田覚忍先生 

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