【本 文】 仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ |
【現代語訳】
阿弥陀如来の光明の耀きのすぐれていることは、とても諸仏の光明の及ばないところにある。
それで光炎王仏と申し上げる。このようなすばらしい徳のある、大応供とも讃えられる阿弥陀如来に帰命したてまつれ。
【語 釈】
①光炎王仏 光明の中で最もすぐれた光明の仏ということ。炎は光の盛んなこと。
王に自由自在の意味と尊貴の意味があり、三塗の黒闇をひらくというのは自由自在の意味であり、
諸仏の光明の及ぶことができないすぐれた光であるというのは尊貴の意味である。
なお、『大経』には「光炎王仏」とはいわず「炎王光仏」と述べられているが、意味は同じである。
②ひらく 三塗の黒闇ひらくとは、地獄、餓鬼、畜生の苦を受けている人がその苦がなくなり、法を聞き、浄土に往生してさとりをうること。
③大応供 応供は仏の十種の名の一つである。梵語のアルファベットの訳。価値のある人。
尊敬すべき人。他人からの供養を受けるに十分相応すべき人。
すべての煩悩を断ちきって他人の供養を受ける資格のある人などの意であり、諸仏に通じる名。今は阿弥陀仏が諸仏の中で、
最もすぐれた仏であることを「大」の一字を加えて表現し、弥陀の別名とされている。
【講 読】
この和讃は十二光の中、光炎王の徳を讃嘆されます。
「仏光照曜最第一、光炎王仏となづけたり」とは、阿弥陀仏の光明の照らし耀くことは、諸仏の光明も及ばないほど、
最も勝れ、それゆえに光明(炎)中の王さまの仏、とも名づけられたと阿弥陀如来の光明を讃えられます。
「三塗の黒闇ひらくなり」とは、光炎王仏だからこそ、最も罪業深い者の堕ちる、
地獄、餓鬼、畜生の三悪道(三塗ともいう)の苦悩(黒闇)さえ破ってお救いくださると讃嘆されます。
このことは、『大経』の
「この光に遇う者は、むさぼり、いかり、愚痴の煩悩(三垢)が消滅し、煩悩の氷が溶け、心身柔軟になる。もし三塗の苦の処にあって、
この光明を見てたてまつれば、みな苦悩がやみ、再び苦にもどることなし、命終わりてののちに、みな解脱を蒙る」
とあることによられたのもでしょう。
三悪道を作るものは、私たちのむさぼり、いかり、愚痴の煩悩でありましょう。
煩悩によって私たちの心が閉ざされ、ふさがれ、氷のように他人ともとけ合えない、他人のことも受け入れられないことになります。
このような私たちの心中が照らされた私の姿が反省させられていくとき、閉ざされ、塞がれた心が開かれていきます。
「三塗の黒闇ひらくなり」とは、このように閉ざされ、塞がれていた心が開かれていくことを讃えられたものでしょう。
「大応供を帰命せよ」の「応供」とは、仏の十の呼び名の一つ、供養に応ずる徳のあるお方ということで、諸仏に通ずる名です。
今は阿弥陀如来が諸仏の王であるということで、大の字を加え、阿弥陀如来の別名とされます。
阿弥陀如来は、一切の衆生を救うために、五劫思惟し、身命を投げ出して、兆載永劫のご修行をしてくださいました。
そして三塗に沈む衆生をさえお救いくださる徳をもった如来です。
従って一切衆生から、深いお敬いの供養を受けるべき如来であるといわれています。
さて、わが身を振り返るとき、人のために何をしてあげているのだろうか。
大したこともしてあげることのできないわが身の不徳に気づかされず、身にあまる幸せをいただいていることを感謝ぜずにはいられません。
大応供に帰命して、はじめて身にあまる幸せをしらされるのです。
それで大応供に帰命せよ、阿弥陀如来に帰命せよとお勧めくださいます。
黒田覚忍先生